12月21日の朝日新聞朝刊「声」欄に、19歳の女性からの「誇りを持てる名前を付けて」と題する投書があった。
以下に、この女性の「声」欄の投書内容を要約する。
先日当「声」欄に、「子の名前には変換容易な字を」との投書があった。私(投書者)の名前は容易にワープロ変換できない。かつ、私の名前を初めて見た人は誰一人読めない。読み間違え、打ち間違えは日常茶飯事である。自分の名前を間違えられるのは嫌だが、逆に言うと珍しい名前であるため褒めてもらえることもある。小学生の頃はこの名前をからかわれたりして嫌いだったが、今では自分の名前が大好きで誇りに思っている。名付けてくれた親に感謝している。名前は一生一緒に付き合っていくものだ。そのようなものに、ワープロ変換を考慮するのはいかがなものか。仮に私の名前がワープロ変換が容易な事を理由に付けられたとしたら残念である。そんな事とは関係なく、子ども自身が誇りを持てる名前を付けて欲しいと思う。
(以上、「声」欄より要約)
私にとっては身につまされる投書内容である。
当ブログのバックナンバーで、度々我が子の名前で苦労していることについて触れているが、名付け親の私としては我が子の名前の件で世間からの誤解により苦労させられる度に、子どもに迷惑をかけていることを痛感してきているためである。
既にバックナンバーをお読みいただいている読者の方々には繰り返しになるが、我が家の子どもの名前は古代ギリシャ語から引用している。原語の持つ意味合いを尊重したいがために、十分に吟味した末にあえてカタカナで命名したといういきさつがある。元々万人が周知の原語ではないことは推し量っていた。ただ、親の理念や生き方、これから子どもが歩むであろう道程等を総合的に予想、判断し、親として最高の名前を子どもに授けることができたと私は信じて疑っていなかった。
ところが命名後子どもを世に送り出すや否や、まったく予期せぬ世間からの反応が待ち受けていたのである。 当然ながら「ギリシャ哲学からですね。」「プラトンからの引用ですね。」という類の世間のリアクションがあるものと私は期待していたのであるが、予想に大きく反して子どもの名前の原語の知名度が世間では低かったのである。 私など海千山千で世間ずれしているつもりでいたのだが、人間とは自分の認識とは裏腹に偏った世界で生きているものだということを、子どもを産んで初めて思い知らされるはめになるのである。
子どもの名前の由来の原語を知る人が1%に満たなかったのだ。100人のうち99人がカタカナの名前を見て「外国人ですか?」と怪訝そうに尋ねて来るのである。名付け親としてはそのように尋ねられる都度、愕然として途方にくれるしかない。
この世間の誤解に困り果てたあげく、不本意ながらも、子どもの幼稚園入園を期に名前の読みはそのままに“ひらがな”表記を通称として使用することとした。そしてそのまま現在に至っている。
子どもの中学進学を機会に、通称の“ひらがな”への戸籍名の改名も検討した。
ちなみに、戸籍名の改名は、混乱を招く、不便である、長年通称を使用している等の理由がある場合、家庭裁判所の許可(審判)を受ければ比較的簡単に行える。我が家の場合この条件を満たしているため、改名はすぐにでも可能である。
だが一家で協議した結果、改名は踏みとどまった。その第一の理由は、世間の反応や使い勝手の悪さよりも、やはり命名に込めた思いを優先したかったからである。 それに、一部ではあるが、“カタカナ”の方がカッコイイ、あるいは国際社会では“カタカナ”名が映える、はたまた、大人になったら“ひらがな”よりも“カタカナ”名の方がふさわしい、等のカタカナ賛同意見もあるからだ。
上記「声」欄の投書者も述べていらっしゃるが、命名とは誰のためにするのか、それは子どものためであろう。
奇名、珍名(この言葉こそが奇妙な言葉であると私は思う。人の名前はすべてすばらしい筈だ。)を付ける事に否定的な見解は今なお多い。でも、ちょっと待って欲しい。人の名前とは記号や番号ではないのだ。「命名」という言葉が表現しているように、人の名前には親の愛や思いが込められているのだ、すなわち命が宿っているのだ。ワープロで変換しにくいとか、聞き慣れないとか、外国人のようだとか、そういった周囲の勝手な判断で親が子に授けた命ある名前を否定的にとらえ非難するのはいかがなものか。
変な名前を付けられた子どもが可愛そうだという意見もある。これに関しても、余計なお世話としか言いようがない。家庭環境にもよるであろうが、親が命名に自信を持ち、命名に見合った家庭環境の下で子を育てると、子は自ずと自分の名前を肯定的に捉えるべく成長していくものである。
万が一の場合、逃げ道もある。子どもが成長し、子どもが自分自身の考え、判断で改名したければ、私はそれをとがめるつもりは毛頭ない。
親が子どもの命名に誇りを持って育てていけば、必ずや子どもも自分の名前に誇りをもってくれるものと私は信じている。
どうか世間の皆さん、狭い見識で他人の子どもの名前を非難なさらないよう切にお願い申し上げたいものである。
以下に、この女性の「声」欄の投書内容を要約する。
先日当「声」欄に、「子の名前には変換容易な字を」との投書があった。私(投書者)の名前は容易にワープロ変換できない。かつ、私の名前を初めて見た人は誰一人読めない。読み間違え、打ち間違えは日常茶飯事である。自分の名前を間違えられるのは嫌だが、逆に言うと珍しい名前であるため褒めてもらえることもある。小学生の頃はこの名前をからかわれたりして嫌いだったが、今では自分の名前が大好きで誇りに思っている。名付けてくれた親に感謝している。名前は一生一緒に付き合っていくものだ。そのようなものに、ワープロ変換を考慮するのはいかがなものか。仮に私の名前がワープロ変換が容易な事を理由に付けられたとしたら残念である。そんな事とは関係なく、子ども自身が誇りを持てる名前を付けて欲しいと思う。
(以上、「声」欄より要約)
私にとっては身につまされる投書内容である。
当ブログのバックナンバーで、度々我が子の名前で苦労していることについて触れているが、名付け親の私としては我が子の名前の件で世間からの誤解により苦労させられる度に、子どもに迷惑をかけていることを痛感してきているためである。
既にバックナンバーをお読みいただいている読者の方々には繰り返しになるが、我が家の子どもの名前は古代ギリシャ語から引用している。原語の持つ意味合いを尊重したいがために、十分に吟味した末にあえてカタカナで命名したといういきさつがある。元々万人が周知の原語ではないことは推し量っていた。ただ、親の理念や生き方、これから子どもが歩むであろう道程等を総合的に予想、判断し、親として最高の名前を子どもに授けることができたと私は信じて疑っていなかった。
ところが命名後子どもを世に送り出すや否や、まったく予期せぬ世間からの反応が待ち受けていたのである。 当然ながら「ギリシャ哲学からですね。」「プラトンからの引用ですね。」という類の世間のリアクションがあるものと私は期待していたのであるが、予想に大きく反して子どもの名前の原語の知名度が世間では低かったのである。 私など海千山千で世間ずれしているつもりでいたのだが、人間とは自分の認識とは裏腹に偏った世界で生きているものだということを、子どもを産んで初めて思い知らされるはめになるのである。
子どもの名前の由来の原語を知る人が1%に満たなかったのだ。100人のうち99人がカタカナの名前を見て「外国人ですか?」と怪訝そうに尋ねて来るのである。名付け親としてはそのように尋ねられる都度、愕然として途方にくれるしかない。
この世間の誤解に困り果てたあげく、不本意ながらも、子どもの幼稚園入園を期に名前の読みはそのままに“ひらがな”表記を通称として使用することとした。そしてそのまま現在に至っている。
子どもの中学進学を機会に、通称の“ひらがな”への戸籍名の改名も検討した。
ちなみに、戸籍名の改名は、混乱を招く、不便である、長年通称を使用している等の理由がある場合、家庭裁判所の許可(審判)を受ければ比較的簡単に行える。我が家の場合この条件を満たしているため、改名はすぐにでも可能である。
だが一家で協議した結果、改名は踏みとどまった。その第一の理由は、世間の反応や使い勝手の悪さよりも、やはり命名に込めた思いを優先したかったからである。 それに、一部ではあるが、“カタカナ”の方がカッコイイ、あるいは国際社会では“カタカナ”名が映える、はたまた、大人になったら“ひらがな”よりも“カタカナ”名の方がふさわしい、等のカタカナ賛同意見もあるからだ。
上記「声」欄の投書者も述べていらっしゃるが、命名とは誰のためにするのか、それは子どものためであろう。
奇名、珍名(この言葉こそが奇妙な言葉であると私は思う。人の名前はすべてすばらしい筈だ。)を付ける事に否定的な見解は今なお多い。でも、ちょっと待って欲しい。人の名前とは記号や番号ではないのだ。「命名」という言葉が表現しているように、人の名前には親の愛や思いが込められているのだ、すなわち命が宿っているのだ。ワープロで変換しにくいとか、聞き慣れないとか、外国人のようだとか、そういった周囲の勝手な判断で親が子に授けた命ある名前を否定的にとらえ非難するのはいかがなものか。
変な名前を付けられた子どもが可愛そうだという意見もある。これに関しても、余計なお世話としか言いようがない。家庭環境にもよるであろうが、親が命名に自信を持ち、命名に見合った家庭環境の下で子を育てると、子は自ずと自分の名前を肯定的に捉えるべく成長していくものである。
万が一の場合、逃げ道もある。子どもが成長し、子どもが自分自身の考え、判断で改名したければ、私はそれをとがめるつもりは毛頭ない。
親が子どもの命名に誇りを持って育てていけば、必ずや子どもも自分の名前に誇りをもってくれるものと私は信じている。
どうか世間の皆さん、狭い見識で他人の子どもの名前を非難なさらないよう切にお願い申し上げたいものである。

あの子が、本来受ける必要のないストレスを、名前を呼ばれるたびに受け続けるようなことがもしあるとすれば、果たして真っ直ぐ育っていくことが出来るのかどうか、全くの赤の他人のコトですが、心配になった記憶があります。
あの親子、あれからどうなったんだろう・・・?
あまりにもマイナスイメージの命名はどうかとは思いますが、私はやはり基本的には命名とはプライベートな事柄であり、他人が詮索、口出しするべき問題ではないと考えます。
本文にも既述していますが、子どもが自分の名前をどう捉えるかは、世間の反応よりもむしろ、命名後の親の子どもとのかかわり方、生育環境が大きいと思います。
ありがとうございました、またお立ち寄り下さい。
「これは間違えずに読めたら、神様だよ」と言うよう名前がごろごろとありました。
子供のためと言うよりは、親の自己満足のためにつけているんじゃないか、と言う感じを受けるものもあるような気がします。
幼稚園児に自分の名前を漢字で書け、というのは酷だとしても、小学校高学年、中学校とあがっていくたびに、自分の名前をきちんと漢字でかけるのだろうか、と心配になってきたりして…
何度も申しますが、子どもに捧げた命名を生かすも殺すも命名主である親次第です。
子の命名に関して世間はあくまで第三者です。
ごまめさん、ありがとうございました。また、是非お立ち寄り下さいね。
名前と言えば、私の家系では男子の場合に“政”という漢字を取り入れる事になっていましたが、私にはそれがなく、なんだか仲間はずれというか、妙な寂しさを覚えました。
ウェブ上で本名を明かすのは危険ではあると思いますが、私の名前は「信悟」と書いてシンゴと読みます。
“人を信じて、物事を悟る”という意味で付けたそうです。
今でもあまり好きになれない名前ですが、(偽善の象徴な気がして)それでも一生付き合う事になる名前ですから、いずれ好きにならないといけませんが・・・
現代に生きる若者代表として(図々しいなぁ)、これから“親”となっていく人や、既に“親”である方に、是非とも名前が持つ意味をもう一度考えて欲しいですね・・・。
流行に流されて付けられるなんてたまったもんじゃないですよ(笑)
長文失礼しました。
kuisinさん、新年早々コメントありがとうございます。
へえ~、kuisinさんの本名は信悟さんていうんですね。私は今まで以上にkuisinさんが何だか身近な存在になったようで、親しみが持ててとてもうれしいですよ。
やっぱり人の名前ってすばらしいですね。
教えてくれてありがとう、信悟さん!!(なんて、大きな声で言ってごめんなさい…。)
でも、大丈夫です。昨夏には本人にアテナイのアカデメイアも見せましたし、たまにほんの少しですがプラトンも読んでくれていますし、本人はこの名前を肯定的に捉えているようです。
でも、確かに紛らわしいでしょうが…。