(冒頭写真は、2024.05.17付朝日新聞記事「女子の理数離れ 小学生から?」より転載したもの。)
今回は、朝日新聞記事の要約を省略するが。
要するに冒頭表題の通り、今現在尚“女子の理数離れが如実に進んでいる”との朝日新聞記事の報道内容である。
原左都子の私事に入ろう。
その私事を語るに際し、「原左都子エッセイ集」2008.10.08付バックナンバーを 以下に再掲載させていただこう。
私は小学生から高校2年生の途中位まで、算数、数学が好きな子どもだった。そのため大学の進路希望では理系を選択したのであって、当時特段理科が好きだった訳ではない。
数学の何が好きなのかと言うと、そのひとつの理由は確実に100点が取れる教科であるからだ。 例えば国語の場合、作文等においては教員の評価の偏り等の要因で減点されてしまったりするような不透明性が避けられないのだが、これは評価される側としては納得がいかない。 そういうことがなく評価に透明度が高いのが算数、数学の特徴であろう。 (ただ証明問題等において、解答を導く論理に誤りがないにもかかわらず、自分が教えた通りの書き方をしていない等の理由で減点するキャパのない教員もいたが…。)
私が算数・数学がもっと本質的に好きだった理由は、数学とは哲学と表裏一体である点である。(このような数学の学問的バックグラウンドを把握したのは、ずっと後のことであるのだが。)紀元前の古代から数学は哲学と共に研究され論じ継がれてきているのだが、数学の概念的理解を要する部分が当時の私にはインパクトがあったのだ。
一例を挙げると、中学校の数学の時間に「点」と「線」の概念について数学担当教員から(おそらく余談で)話を聞いたことがある。 「点」や「線」を生徒が皆鉛筆でノートに書いているが、これらはあくまで“概念”であり形も質量もないものであって、本来はノートなどに形にして書けないものである。数学の学習のために便宜上、鉛筆で形造って書いているだけのことである…。 おそらく、このような内容の話を聞いたと記憶している。
この話が当時の私にとっては衝撃的だった。「点」や「線」とはこの世に実在しない“概念”の世界の産物なのだ! (当時は言葉ではなく、五感に訴えるあくまでも感覚的な存在として“概念”という抽象的な思考の世界に私としては初めて触れた経験だったように思う。)
お陰で数学に対する興味が一段と増したものだ。
同様に、“2進法”を中学生の時に(?)学んだ記憶があるが、これも大いにインパクトがあった。
「1」と「0」のみの世界! 要するに「存在」と「非存在(無)」の哲学の世界とも言えようが、世の中のすべての基本はこの2進法にあるのではなかろうか、(と考えたのはやはりずっと後のことだが…)。
小さい頃から10進法に慣らされている頭には、この2進法の洗練された世界はまだまだ子どもの私にとってとても斬新だった。 またまた数学の面白さを学ぶ機会となった。
この“2進法”はコンピュータの計算原理でもある、と教えられ、コンピュータとは電球がONかOFFになることの発展型である、ことを頭に思い浮かべて“なるほど!”と納得したものだ。
その「電子計算機論」を大人になってから学ぶ機会があった。
20代に医学関係の仕事に携っていた頃、データ処理用のワークシートをコンピュータで出力する業務を任せられるに当たってプログラミングを経験したのであるが、その時に仕事の合間に私は独学でプログラミング(COBOLとFORTRAN)をマスターした。
プログラミングの学習の一環としての「電子計算機概論」に、やはり“2進法”が登場した。 コンピュータ内における情報処理の基本計算原理は“2進法”。
すなわち「1」と「0」の世界がコンピュータを生み出したと言っても過言ではない。
数学の何が好きなのかと言うと、そのひとつの理由は確実に100点が取れる教科であるからだ。 例えば国語の場合、作文等においては教員の評価の偏り等の要因で減点されてしまったりするような不透明性が避けられないのだが、これは評価される側としては納得がいかない。 そういうことがなく評価に透明度が高いのが算数、数学の特徴であろう。 (ただ証明問題等において、解答を導く論理に誤りがないにもかかわらず、自分が教えた通りの書き方をしていない等の理由で減点するキャパのない教員もいたが…。)
私が算数・数学がもっと本質的に好きだった理由は、数学とは哲学と表裏一体である点である。(このような数学の学問的バックグラウンドを把握したのは、ずっと後のことであるのだが。)紀元前の古代から数学は哲学と共に研究され論じ継がれてきているのだが、数学の概念的理解を要する部分が当時の私にはインパクトがあったのだ。
一例を挙げると、中学校の数学の時間に「点」と「線」の概念について数学担当教員から(おそらく余談で)話を聞いたことがある。 「点」や「線」を生徒が皆鉛筆でノートに書いているが、これらはあくまで“概念”であり形も質量もないものであって、本来はノートなどに形にして書けないものである。数学の学習のために便宜上、鉛筆で形造って書いているだけのことである…。 おそらく、このような内容の話を聞いたと記憶している。
この話が当時の私にとっては衝撃的だった。「点」や「線」とはこの世に実在しない“概念”の世界の産物なのだ! (当時は言葉ではなく、五感に訴えるあくまでも感覚的な存在として“概念”という抽象的な思考の世界に私としては初めて触れた経験だったように思う。)
お陰で数学に対する興味が一段と増したものだ。
同様に、“2進法”を中学生の時に(?)学んだ記憶があるが、これも大いにインパクトがあった。
「1」と「0」のみの世界! 要するに「存在」と「非存在(無)」の哲学の世界とも言えようが、世の中のすべての基本はこの2進法にあるのではなかろうか、(と考えたのはやはりずっと後のことだが…)。
小さい頃から10進法に慣らされている頭には、この2進法の洗練された世界はまだまだ子どもの私にとってとても斬新だった。 またまた数学の面白さを学ぶ機会となった。
この“2進法”はコンピュータの計算原理でもある、と教えられ、コンピュータとは電球がONかOFFになることの発展型である、ことを頭に思い浮かべて“なるほど!”と納得したものだ。
その「電子計算機論」を大人になってから学ぶ機会があった。
20代に医学関係の仕事に携っていた頃、データ処理用のワークシートをコンピュータで出力する業務を任せられるに当たってプログラミングを経験したのであるが、その時に仕事の合間に私は独学でプログラミング(COBOLとFORTRAN)をマスターした。
プログラミングの学習の一環としての「電子計算機概論」に、やはり“2進法”が登場した。 コンピュータ内における情報処理の基本計算原理は“2進法”。
すなわち「1」と「0」の世界がコンピュータを生み出したと言っても過言ではない。
(以下略すが、以上我がエッセイ集初期頃の2008.10バックナンバーより一部を引用したもの。)
最後に現在の私見を述べよう。
いつの時代も、教育現場に於いては教育者の力量が問われるものだが。
全くもって教員の教育力と生徒の学習成果とは正比例するものであることを、この原左都子など中学生時代から身をもって実感させられたものだ。
小学生時代から算数好きだった私だが。
上記引用文中に記載している通り。
その我が算数好きは、中学生時代に「数学とは哲学と表裏一体である点である」、等々の数学の学問的バックグラウンドを語れる力量のある数学教諭に出会えたことで更に花開いたと言えよう。
それにしても 今思い出しても、あの時代にあの過疎地公立中学校に素晴らしい学術力を備えた数学教師(若手男性教師でした)が配属されたものだ、とその偶然に今更ながら驚かされる。😲
あの時 あの教師に出会えなければ、この私は後々理系の医学部に進学することなど無かっただろうし(???)。
今現在に至って尚、このようにブログとの媒体にて日々自己の学問経験等々を語れるラッキーにも出会えなかったように考察する。
いま現代の子ども達の「理数離れ」を救うのは、素晴らしき学校の教師との早期の出会いが一番の要と思えてきたりもする。
通り一遍の学校授業展開ではなく。
趣味範囲でもよいから何らかの専門力を身に付けた教師が小中高校現場に数多く配属されることに、心より期待したいものだ!!