原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「65歳過ぎたらひとりで生きる準備」?、なるほどねえ。

2020年08月18日 | 自己実現
 (冒頭写真は、少し前の朝日新聞雑誌広告欄より転載したもの。) 


 この猛暑を後しばらく耐え忍び秋風が心地よくそよぐ季節になると、私は表題の年齢に達する。


 私の場合は何も65歳過ぎたからと言って、あたふたと「ひとりで生きる準備」をせずとも。 20代前半期に単独で上京した時点で、既に“この世を一人で生きる覚悟”が出来ていたとも言えよう。

 まあただ、年老いて一人になるのと、青春期真っ只中の一人とは大きく意味が異なるため、今それを今一度考察しておいてもよかろう。


 とりあえず上記写真の広告内文言を、以下に転載しよう。

 人生は最後につまずくことが多いので

 〇 妻がいなくなった後を考えていますか
 〇 子どもも最後は「他人」になる
 〇 最後は「孤独」が友達に
 〇 身体は衰えても、心は充たされていく毎日の作り方
 〇 過去を受け入れ、自分を認めれば「大団円」が迎えられる



 原左都子自身の現状を再認識しつつ、我が65歳以降の人生に思いを馳せてみよう。

 〇 妻(夫)がいなくなった後のこと

 偶然つい最近、たまたま亭主との会話内でこの話題が出た。
 順当に行けば私の方が後で死を迎えるであろうから、「アンタの最後は私がきちんと看取ってあげるよ」ナンタラカンタラと亭主に告げた。
 実際問題我が家の場合そうであってくれなければ、その後が大混乱状態となることが目に見える。 その悲劇を予想するに、私は絶対的に亭主より先に死ぬ訳にはいかない!!  その覚悟が出来ている私故に、今後も健康体を保ちつつ長生きするであろう。

 〇 子どもも最後は「他人」になる

 この課題に関しても、我が家の場合かなり特異的だ。
 まず、我が娘が(持って生まれた事情故に)「他人」になりそうにない。
 いつまでもサリバンである私の元にいてくれることであろう。 その場合、私亡き後この子が如何に生き延びるか、との別次元の課題がある。 むしろ我が生前に、出来る限りのその教育を娘に施すべきと展望している。

 〇 最後は「孤独」が友達

 これに関しては私の場合、上述のごとく娘がおそらく一生涯一緒に住んでくれると予想している。 娘に対する教育はまだまだ数多く、現時点では「孤独」など他人事で生きている。

 〇 身体は衰えても、心は充たされていく毎日の作り方

  この手の発想が出る人種とは、身体を健全に維持する努力を怠って生きている“他力本願”タイプであろう。
 まず、自己責任で自分の身体を維持するべきだ! それぞ鉄則! これに関しては元医学関係者である私の場合、自己に厳しく他者にも厳しい。
 身体が衰えた人間の心が充たされるはずもない!、というのが私論の結論だ。

 〇 過去を受け入れ、自分を認めれば「大団円」が迎えられる

 人間の人生とは自己啓発と目標達成努力の積み重ねによって成り立つものだ。
 それを十分に成し遂げて来たと自負するこの私が、自分の過去を否定するなどあり得ない。
 当然ながら自己の生き様に満足している私だが。
 「大団円」とは何とも大袈裟だなあ。  そんな境地に至らずとてよいが。
 私にとっては、私亡き後の我が娘の先々がどうしても気がかりであろうことが今から想像出来てしまう。
 ただ親としてその感覚がある限り、(高HDLコレステロール値の恩恵もあり)私は長生き出来る気もしている。



 えっ? 何?? 「人生は最後につまずくことが多い」ですって??

 “人生の最後”の解釈も多々あろうが。

 とにかくこの雑誌が前提としている対象読者とは。

 65歳にもなって未だ自分の“最後”に責任を持てないのに加えてその展望すら出来ず、“妻”や“夫”やはたまた“子ども”に自分の人生を委ねる“他力本願”人種に他ならないのではなかろうか?? と結論付けたい。😷