残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《剣聖②》第十八回
しかし、文句を云う筋合いでもなく、左馬介は取り敢えず部屋内へと入り、どっしりと座布団の上へ腰を下ろした。
その時、手代がふたたび現れた。手には盆を持っている。この景色は、つい先ほど、むさい店裏の床机に左馬介が座っていた折り、握り飯と茶を盆に乗せて現れた手代の姿と似通っているように思われた。よく凝視すれば、確かに先ほどの手代である。僅かな時の移ろいでしかないので見間違う訳がない。すると、近づいた手代の方から、
「先ほどは…。ここへおいて置きます」
と、盆に乗せた茶碗と茶菓子を置いていった。
「度々(たびたび)、恐れ入ります」
「蟹谷様、早く参られると宜しゅうございますね」
手代はそう云いながら軽い会釈をすると立ち去った。左馬介が置かれた茶を飲むと、これが熱からず冷たからず、丁度、絶妙の淹れ加減で、味もよく出ていた。その茶を飲み終えると、道場を早立ちの所為(せい)か左馬介は無性に眠くなり、いつしか微睡(まどろ)んだ。
蟹谷が千鳥屋に現れたのは午の下刻から未の刻になろうとしていた頃である。