夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

虎屋の本店休業あいさつ文、老ボーイの私でも、微笑みながら称賛して・・。

2015-10-07 12:57:33 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の老ボーイの身であるが、
先ほど、パソコンを立ち上げてネットのニュースを見ようと思ったりした。

私はトップページとしては【YAHOO! JAPAN】を指定しているが、
トピックス・ニュースとして、10ばかり見出しが紹介されているが、
この中のひとつに、【虎屋の本店休業あいさつ話題】と明記されていた。

私は和洋菓子にも疎(うと)く、何かと単細胞の私は、文明堂のカステラとか三笠山を愛食し、
羊羹(ようかん)だったならば『虎屋』となり、少年期から愛食し、早や60数年が過ぎている。

こうした心情を秘めている私は、どのようなことなの、と好奇心が増して、クリックした。

やがて老舗和菓子店『虎屋』のホームページに掲載された本店休業あいさつ状を読みながら、
微笑んだりし、何かと文章に辛口の私でも、綴られた虎屋17代の黒川光博社長のまごころ、謙虚さ、
称賛した。

ネット上に公表されていたので、転載させて頂く。
          

《・・十七代 黒川光博より 赤坂本店をご愛顧くださったみなさまへ

赤坂本店、および虎屋菓寮 赤坂本店は、10月7日をもって休業いたします。
室町時代後期に京都で創業し、御所御用を勤めてきた虎屋は、
明治2年(1869)、東京という全く新しい土地で仕事を始める決断をしました。

赤坂の地に初めて店を構えたのは明治12年(1879)。
明治28年(1895)には現在東京工場がある地に移り、製造所と店舗を設けました。

昭和7年(1932)に青山通りで新築した店舗は、城郭を思わせるデザインでしたが、
昭和39年(1964)、東京オリンピック開催に伴う道路拡張工事のため、
斜向かいにあたる現在地へ移転いたしました。

「行灯 (あんどん)」をビルのモチーフとし、それを灯すように建物全体をライトアップしていた時期もありました。
周囲にはまだ高いビルが少なかった時代で、当時 大学生だった私は、
赤坂の地にぽっと現れた大きな灯りに心をはずませたことを思い出します。

この店でお客様をお迎えした51年のあいだ、多くの素晴らしい出逢いに恵まれました。

3日と空けずにご来店くださり、きまってお汁粉を召し上がる男性のお客様。
毎朝お母さまとご一緒に小形羊羹を1つお買い求めくださっていた、当時幼稚園生でいらしたお客様。
ある時おひとりでお見えになったので、心配になった店員が外へ出てみると、
お母さまがこっそり隠れて見守っていらっしゃったということもありました。

車椅子でご来店くださっていた、100歳になられる女性のお客様。
入院生活に入られてからは、ご家族が生菓子や干菓子をお買い求めくださいました。
お食事ができなくなられてからも、弊社の干菓子をくずしながらお召し上がりになったと伺っています。

このようにお客様とともに過ごさせて頂いた時間をここに書き尽くすことは到底できませんが、
おひとりおひとりのお姿は、強く私たちの心に焼き付いています。

3年後にできる新しいビルは、ゆっくりお過ごしになる方、お急ぎの方、外国の方などあらゆるお客様にとって、
さらにお使い頂きやすいものとなるよう考えています。

新たな店でもたくさんの方々との出逢いを楽しみにしつつ、これまでのご愛顧に心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は『虎屋』に関しては、赤坂本店には訪れたことはないが、
小学時代には新宿にある『伊勢丹』に、母の手に曳(ひ)かれながら行ったりした。
そして生家の最寄駅にある和菓子屋さんより、羊羹(ようかん)が遥(はる)かに美味しい、
と今でも鮮烈な記憶が残っている。

やがて二十歳過ぎた頃から、生家が羊羹(ようかん)を買ってくるように言われた時、
『小田急』、『京王』などのデパートで買い求めたりしてきた。

今回の黒川社長の赤坂本店の休業あいさつ状、このようなお気持ちでお客さまを見続けた心情、
無力な私は、感動させられたりした。

余談であるが、我が家、親戚を含めて、『虎屋』、『文明堂』には関係する人は皆無である。

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