夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

「通話」よりも「目で読む会話」が主流の時代、時代遅れの私は学び、溜息を重ねた後、やがて微苦笑して・・。

2016-12-08 15:59:18 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の住み年金生活をしている72歳の身であるが、
ときおり愛読している日本経済新聞系のサイト【nikkei BPnet】を見ていたら、
【 いつ電話するかあらかじめメールで連絡・・面倒くさい時代だな 】と見出しを見てしまった。

私は齢ばかり重ねた身でも、何かと好奇心が強く、どういうことなのょ、と記事を読んでしまった・・。

この記事は梶原しげるさんが綴られた寄稿文であり、2016年12月8日に配信され、
無断であるが大半を転載させて頂く。

《・・いつ電話するかあらかじめメールで連絡・・面倒くさい時代だな
             

☆「通話」よりも「目で読む会話」が主流の時代

(略)メールやLINEなど、「目で読む会話」が主流になっているとのブログの指摘を否定することは難しい。

先日、ある出版社の編集者と電話で企画を話し合った。
「面白そうですねえ」
と言ってくれた彼。

「じゃあ、この続き、今度会ってもっと深めたいねえ」
そう返した私に、彼が言った言葉が忘れられない。

「今日、梶原さんがしゃべったこと、メールで送っておいてくれませんか?」

上手な「お断りの言葉だなあ」と思ったら、
そうでもなくて「文字化した企画」を上司に「そのまま転送メールで報告」したかったそうだ。

便利といえば便利かもしれないが、できれば自分の感性で受け止め、
吟味した中身を自分の言葉で、上司に伝えてほしい気もした。
良い企画書は「会話で、もまれなければ、生まれない」というのは、古いのかもしれない。(略)

本コラムでは、現在、音声メディア「電話」が廃れ、
メールなど「文字会話」が、圧倒的優位となりつつある現状を考察中であった。(略)
             

☆険しい表情でも、甘い言葉を「書く」ことはできる

列車内でのケータイ電話による通話が問題になったのは、遙か昔のことだ。
今では、そもそも混み合う電車の中で「大きな声で会話する人の姿」など、めっきり減った。

夜遅く集団で乗り込んでくる、少々お酒に酔ったにぎやかそうな連中でさえ、
電車に乗りこむなり、「車内マナーを守る物静かな若者たち」に変貌する。
彼らが道徳心あふれる好青年だから、ではない。

電車内は「命より大事なメールとLINEの確認場所」だからだ、
と私は思う(違うかも……)。

これは何も連中だけの話ではない。

会社帰りのサラリーマンも、デートを終え彼女を自宅まで送る彼氏も、送られる彼女も、
女子会を終えたおばさんグループも・・。

ひとたび車中の人となれば、人類にとってその場所は、あたかも「私語厳禁の世界」であるかのように、
会話も、もちろん笑い声も聞こえてこない(略)。

嘘だと思ったら、夜11時を過ぎたあたりの地下鉄に乗ってみるといい。
全員がそれが義務、仕事のようにスマホを開き、メールやLINEのチェックと送受信を黙々とこなし始める。
どうやら我々のコミュニケーションは「音声会話」から「文字送受信」へと大きく舵を切った現れが
ここにあるともいえる(いえないかもしれないが・・)。

かつて著名な作家から、思うように作品が書けないとき、
夜の混み合う電車に乗って、人々が語り合う話を盗み聞き、そこから様々な物語を紡ぎ出したと伺ったことがある。

私もそれをまねて、じゃれ合うカップルの痴話げんかめいた会話を興味深く聞くウチ、
電車を乗り過ごし、中央線の終点・高尾駅から帰れなくなった昔を思い出した。
             

いま恋人たちは、ひとつのスマホに互いの言葉を書き入れ合ったりしている。

ある夜、列車のドアに寄りかかり、スマホの画面をにらみつけるように
険しい表情をしたまま指を動かす女性の、その画面をそっと覗いたことがある。

「何か深刻な事態を綴っているようだが、大丈夫だろうか?」
チラッと見えたものは(覗き込んだのだが・・)、
意外にも「“ハートマーク”満載の楽しそうで、ポジティブな文面だった。

文字情報では、メールの文面と送り手の感情や表情は、
連動しないとの意外な事実を発見した瞬間だ(大げさか・・)!

どんな嫌な顔をしていても、甘くやさしい言葉は、いくらでも書ける。
             

一方で、電話の生声には、そのまま正直な表情が付いてくる。
「馬鹿野郎、この野郎」と声で怒りながら「にっこにっこの満面の笑顔」を見せられるのは、
竹中直人さんが天才だからできる技だ。(略)

声から自然に伝わる人間味を、文字で表すとなると、これはなかなか難しい。
どうしても「無味乾燥で陳腐、ワンパターンな表現の羅列」に終わりがちだ。
音声で伝えられる情報量に比べれば、文字情報はまだまだ見劣りがする(絵文字とスタンプ、もっと頑張れ!)。

「文字会話より、断然音声会話」という「守旧派」の私は、
そんなわけで、ヒマさえあればいろんな人に、電話をかけてしまう。
声による「より濃密なコミュニケーション」を求めてしまう。(略)


先日事務所の社長がぽつりと言った。

社長:「僕は最近、若い連中に、いきなり電話しなくなりましたよ。
『社長からの突然の電話って緊張するから、あらかじめ言っておいてほしい』ですって。
だから電話する前に『これから電話するけど、いつ頃が良い?』ってメールするんですよ」

梶原:「面倒くさい時代だなあ」

などとと思いつつ「でも、そういう配慮も必要な時代なのかなあ」とあきらめかけてもいる。(略)・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をし、早や年金生活13年生となっている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

我が家はインターネットに関して、固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
私は据え置き型のパソコンを利用している。

こうした中、私は恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えなく、
家内だけは、遅ればせながら昨年の春以来、携帯電話を買い求めて利用している。

私はフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
             

私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビール、水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。

ときおり国内旅行を私たち夫婦は重ねてきたが、旅先でも、私は食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、
話しかけて談笑したりしている。
            
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
             

過ぎし2011年12月に於いて、平素の買物専任の老ボーイの私は、
駅前のスーパーに行った時、駅近くの人出の多い商店街を歩いていると、
若き20代の女性が前かがみで、何かを見ながら歩いていた。

その後、駅前の広場を足早に歩いていた若き30代の男性も、
やはり前かがみで、何かを見ながら歩いていた・・。

私は驚きながら周辺を見渡すと、10人ぐらいの方が前かがみで、何かを見ながら歩いていたので、
まるで江戸時代末期に農民の児として育った二宮金次郎(尊徳)のような方が増えた、と私は苦笑したりした・・。

もとより二宮金次郎は、貧困の少年時代を過ごし奮闘しながら朝から晩まで働き、
この間に薪(まき)を背負っての道中に本を読んで勉学に励んだ人で、
私が学んだ小学校の校庭の片隅に銅像があった。

私は注視しながら見ていると、何かしら携帯電話のような物に覗き込むように見ている人が多く、
無念ながら携帯電話も使えず、世の中の時流から取り残されている私でも、
急速に話題となっている高性能携帯電話と称されているスマートフォンだ、と解った。

そして過ぎし日に雑誌などで教示され、従来の携帯電話はもとより、バソコン、デジカメ、
カーナビ、携帯音楽プレーヤー、ゲーム機、電子辞書なども有している機能もある、
と知り私は驚いているひとりである。
                                              

ここ10数年、携帯電話が普及する中で、働いた下さる諸兄諸姉は、
通常の業務には必須の情報機器であり、そして6年前の頃からはスマホが急速に活用されてきている。

或いは第一線を退かれた60代、70代の殆どの方が、携帯電話かスマホを利用され、
ご高齢の80代以上の方たちも、家族間の連絡、緊急連絡で、
お守り代わりに利用されている状況となっている。

まして若き10、20代の世代の人の一部には、新聞も購読せず、パソコンも所有せず、
スマホだけを頼りに生活をされている現実がある。

このような情報があふれるような社会状況となっている今日、程ほどの利用は必要であるが、
たえずスマホを手にされて頼りにされるのは、いかがなものかしら、と私は憂いている。
          
まして私生活の貴重な時間に於いては、スマホの活用は程ほどの節度が必要と確信を深めている。
                                 

私が平素は自宅の近くの遊歩道を散策することが多く、
たまたま日曜日に散策していた時、若き30歳前後の男女が前方から歩いてきた・・。
仲良し恋しのおふたり、と私は好感しながら眺めながら歩いた。

そして20数メートルの前方の距離になると、
この男性の右手には、スマホと思われる情報機器を持ち、ときおり見ながら、
連れ合いの女性にうなずくような歩いてこられた。

私はすれ違った後、この若き男女の後ろ姿を見ながら、
たぶん休日の日と思いながらも、スマホなどは自宅に置き、
せめてこうした時ぐらいは情愛を深め、語り合うことをされたら、と思ったりしたのである。
             

このような心情を重ねてきた私は、今回の記事を読み、特に驚き溜息を重ねたのは、
・・いま恋人たちは、会話もせずに、お互いにスマホの画面に、
真剣な表情で指を動かして入力している・・このような情景を重ねると、寂しくないですか・・
と私は深く思ったりしている。

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