
1974年4月1日、私はNECに入社した。
京都大学の理学部からは私一人(大学院生はいたかもしれない)だったので知り合いはいなかった。ところが入社式に向かう電車の中で見たことのある顔を見た。向こうも私を知っているようであった。話してみると岡山大学の囲碁部の人で全国大会であっていたのだった。知り合いを見つけてうれしかった。
住まいは会社の寮に入った。西生田寮という小田急の読売ランド駅前から読売ランドに向かう坂の中腹にあり駅から歩いて15分くらいだった。寮は鉄筋の5階建てで二人一部屋だった。100部屋くらいあった。部屋は8畳くらいの広さだったと思う。相棒は埼玉県の行田が実家の人で週末は実家に帰っていた。 先日その寮のあたりに行ってみたが取り壊されていて住宅地になっていた。
配属は中央研究所になった。研究所の中では、6つほどの研究部があったが、新入社員はそれぞれの部の説明を2日間ほど聞いてどこの研究部を希望するかを言うことになっていた。当時、物理関係をやっていたのは材料研究部と個体研究部で、固い研究部の朝鍋部長のところがチームワークが良さそうに思えたので第1希望を個体研究部、第2希望を材料研究部、第3希望まで書くことになっていたのでそこは消去法でやってみても良いかと感じた通信研究部にした。しかし、物理系はマスター卒で大学の教授と話をつけていたような人がほとんどで私は第3希望の通信研究部に配属された。
その年には通信研究部に5人の新入社員が配属になっていた。マスター2人と学部卒3人だった。当時、通信研究部の中で4つのグループがあった。メディア処理をやるグループ、有線通信をやるグループ、無線通信をやるグループ、そして通信理論をやるグループである。通信研究部の中でまたそれぞれのグループの説明を聞いてどこのグループを希望するかを聞かれた。私は理学部卒であったことと、やはり人を見て理論グループがチームワークが良さそうに感じたので理論グループを希望した。第2希望を無線グループにした。無線ではミリ波というのを聞いたことがあって、理論的なことをやっていそうに思えたからである。しかし、理論グループには数学科卒の女性が配属されることがやはり前から決まっていて、私は無線グループに配属された。当時無線グループはミリ波の研究をやめようとしているところで、そこに「ミリ波がやってみたい」などというのが入ってきたので「変なやつを貰ったな」と当時のグループリーダーは思ったそうである。
このように私の配属は本人の希望とはあまり関係のない分野になった。しかし後から振り返るとこれは私にとって大幸運だったのである。その年、部長が関本さんから金子さんに変わったところだった。関本さんとは後に社長になって業界でも有名人になった関本忠弘さんである。金子さんも後に社長になった。そして私が配属された無線グループのリーダーは杉山さんでこの人は後に副社長になっている。私はNECの中でも大変な名門グループに配属されたのだった。
私の実家は父が数年前から東京に単身赴任しており、私が就職して東京に来て、弟は北海道大学に入学したので母一人になってしまった。そこで鎌倉の社宅を借りて家はほかの人に貸すことにした。当時職場は向河原の玉川事業所だったので鎌倉なら通えないことはなかったのだが、一年後には研究所は田園都市線の宮崎台に移ることになっていたので、やはり寮から通うことにした。
こうして私の社会人生活が始まった。
写真は昨年12月に東海道を歩いた時に撮影したNEC本社である。当時は森永ビルが本社だった。
京都大学の理学部からは私一人(大学院生はいたかもしれない)だったので知り合いはいなかった。ところが入社式に向かう電車の中で見たことのある顔を見た。向こうも私を知っているようであった。話してみると岡山大学の囲碁部の人で全国大会であっていたのだった。知り合いを見つけてうれしかった。
住まいは会社の寮に入った。西生田寮という小田急の読売ランド駅前から読売ランドに向かう坂の中腹にあり駅から歩いて15分くらいだった。寮は鉄筋の5階建てで二人一部屋だった。100部屋くらいあった。部屋は8畳くらいの広さだったと思う。相棒は埼玉県の行田が実家の人で週末は実家に帰っていた。 先日その寮のあたりに行ってみたが取り壊されていて住宅地になっていた。
配属は中央研究所になった。研究所の中では、6つほどの研究部があったが、新入社員はそれぞれの部の説明を2日間ほど聞いてどこの研究部を希望するかを言うことになっていた。当時、物理関係をやっていたのは材料研究部と個体研究部で、固い研究部の朝鍋部長のところがチームワークが良さそうに思えたので第1希望を個体研究部、第2希望を材料研究部、第3希望まで書くことになっていたのでそこは消去法でやってみても良いかと感じた通信研究部にした。しかし、物理系はマスター卒で大学の教授と話をつけていたような人がほとんどで私は第3希望の通信研究部に配属された。
その年には通信研究部に5人の新入社員が配属になっていた。マスター2人と学部卒3人だった。当時、通信研究部の中で4つのグループがあった。メディア処理をやるグループ、有線通信をやるグループ、無線通信をやるグループ、そして通信理論をやるグループである。通信研究部の中でまたそれぞれのグループの説明を聞いてどこのグループを希望するかを聞かれた。私は理学部卒であったことと、やはり人を見て理論グループがチームワークが良さそうに感じたので理論グループを希望した。第2希望を無線グループにした。無線ではミリ波というのを聞いたことがあって、理論的なことをやっていそうに思えたからである。しかし、理論グループには数学科卒の女性が配属されることがやはり前から決まっていて、私は無線グループに配属された。当時無線グループはミリ波の研究をやめようとしているところで、そこに「ミリ波がやってみたい」などというのが入ってきたので「変なやつを貰ったな」と当時のグループリーダーは思ったそうである。
このように私の配属は本人の希望とはあまり関係のない分野になった。しかし後から振り返るとこれは私にとって大幸運だったのである。その年、部長が関本さんから金子さんに変わったところだった。関本さんとは後に社長になって業界でも有名人になった関本忠弘さんである。金子さんも後に社長になった。そして私が配属された無線グループのリーダーは杉山さんでこの人は後に副社長になっている。私はNECの中でも大変な名門グループに配属されたのだった。
私の実家は父が数年前から東京に単身赴任しており、私が就職して東京に来て、弟は北海道大学に入学したので母一人になってしまった。そこで鎌倉の社宅を借りて家はほかの人に貸すことにした。当時職場は向河原の玉川事業所だったので鎌倉なら通えないことはなかったのだが、一年後には研究所は田園都市線の宮崎台に移ることになっていたので、やはり寮から通うことにした。
こうして私の社会人生活が始まった。
写真は昨年12月に東海道を歩いた時に撮影したNEC本社である。当時は森永ビルが本社だった。
職場が第三希望であったことを知り、かなり驚きました。
私が yukif_yoko さんに初めてお会いしたのは、某暑い夏のある日、中央研究所にて。
私自身、入社して数ヶ月。初めて中央研究所に訪ね、部屋に通されました。
腕まくりして、団扇をパタパタさせていた時のことを鮮明に覚えています。
その僅か数週間後、私は異動内示を貰い、そして、まさか yukif_yoko さんが私の部署の上司になるとは思ってもいませんでした.....
そろそれ、私が誰だか、わかってしまいましたネ。
このブログにて、お元気そうな毎日をお過ごしの姿を、想像しています。
まだまだ寒い日が続きますが、お体に気をつけて下さいませ。