課長になって2-3年すると私は研究所から外に出ることを考えるようになった。
当時、私は通信研究部に属していた。私が入社した頃の通信研究部は通信方式全般に加えて、音声符号化、画像符号化などのメディア処理もやっていたが、課長になった頃にはメディア処理は切り離して別の部になっていて、通信研究部は伝送・交換・無線という通信全般を扱っていた。
私はそのうち無線グループのリーダだったのだが、会社内で次のステップにあがるとすると部長である。部長の守備範囲である通信全般は広すぎて、とても自分の守備範囲としてカバーできるとは思えなかった。事業の流れを見てどの分野に投資するか、どこのグループを大きくするか、といったことを考えるのが部長の仕事になるが、自分は無線分野ならかなり深いところまで口出しできると感じていたし、事業としても通信全般は大きすぎて動向把握も困難な感じがしていた。
自分としてはさらに技術分野を横に広げるよりも、研究からより事業につながる仕事までカバーして縦に広げるほうが好ましく、いわゆる管理職になるなら、研究管理ではなく、より事業に近い管理をしたいと感じていた。ほとんどの先輩たちはこのパタンで、関連する事業部に出ていくのだが、見ていると価値観の急激な変動で苦労している人が多く、自分も不安であった。
このような時期に会社内で大きな組織変動があり、NEC社内で「パーソナルグループ」を作ることになった。これは当時国内で50%程度のシェアを持っていたパソコンを中心に、まだ規模は小さいが成長著しい移動体通信、FAXなどの端末機器をまとめて、通信、コンピュータ、半導体に続く第4の柱としようという動きだった。その際に、パーソナルグループの「開発研究所」を作り、新技術をより実用化に近づける役割を担わせたい、という構想があり、そこの部長でどうか、という話だった。
ちょうど自分で将来を悩み始めていた時期だったので私はこの話に乗って、中央研究所からパーソナル開発研究所に移った。1992年のことで入社から18年が経過していた。
当時、私は通信研究部に属していた。私が入社した頃の通信研究部は通信方式全般に加えて、音声符号化、画像符号化などのメディア処理もやっていたが、課長になった頃にはメディア処理は切り離して別の部になっていて、通信研究部は伝送・交換・無線という通信全般を扱っていた。
私はそのうち無線グループのリーダだったのだが、会社内で次のステップにあがるとすると部長である。部長の守備範囲である通信全般は広すぎて、とても自分の守備範囲としてカバーできるとは思えなかった。事業の流れを見てどの分野に投資するか、どこのグループを大きくするか、といったことを考えるのが部長の仕事になるが、自分は無線分野ならかなり深いところまで口出しできると感じていたし、事業としても通信全般は大きすぎて動向把握も困難な感じがしていた。
自分としてはさらに技術分野を横に広げるよりも、研究からより事業につながる仕事までカバーして縦に広げるほうが好ましく、いわゆる管理職になるなら、研究管理ではなく、より事業に近い管理をしたいと感じていた。ほとんどの先輩たちはこのパタンで、関連する事業部に出ていくのだが、見ていると価値観の急激な変動で苦労している人が多く、自分も不安であった。
このような時期に会社内で大きな組織変動があり、NEC社内で「パーソナルグループ」を作ることになった。これは当時国内で50%程度のシェアを持っていたパソコンを中心に、まだ規模は小さいが成長著しい移動体通信、FAXなどの端末機器をまとめて、通信、コンピュータ、半導体に続く第4の柱としようという動きだった。その際に、パーソナルグループの「開発研究所」を作り、新技術をより実用化に近づける役割を担わせたい、という構想があり、そこの部長でどうか、という話だった。
ちょうど自分で将来を悩み始めていた時期だったので私はこの話に乗って、中央研究所からパーソナル開発研究所に移った。1992年のことで入社から18年が経過していた。