「伊勢山皇大神宮」の北側にある坂が、その名も美しい「紅葉(もみじ)坂」
往時はきっと、美しく紅葉する木がたくさんあったのでしょう。
現在は・・
坂を上りながらふり返ると、、ランドマークタワーが間近に☆
「紅葉坂」を上りきった所に、「県立図書館」「県立音楽堂」「県立青少年センター」など。
そうか、さっき歩いてきた「音楽通り」の名は、此処の「県立音楽堂」に関係するのかも・・?
などと、考えたりしながら・・・
坂の途中の右側、植え込みに埋もれるように
「金星太陽面経過観測記念碑」
1874(明治7)年12月9日 金星が太陽面を通過するのを、この辺りで観測した
ことを記念する石碑です。 この日、世界各国から天文学者達が来日したとか。
最近では2012年6月にも、日本で太陽面を通過する金星が見られましたね。
「青少年センター」前に、サクラの若木が1本。
「宇宙桜」
2000年2月 スペースシャトル「エンデバー」に搭乗した毛利 衛飛行士と共に
宇宙を旅してきたエゾヤマザクラの種子から育てられたものだそうです。
毛利氏の故郷 北海道から、2005年に寄贈されました。
「史跡 神奈川奉行所跡」碑
神奈川奉行所は、横浜開港に伴い1859(安政6)年に設置されました。
外国奉行 酒井忠行・水野忠徳ら5名が神奈川奉行兼務を命じられて、
関税及び外務全般の事務を取り扱ったといいます。 明治政府に移管
ののち「横浜裁判所」と改められ、更に「神奈川県庁」と改称されました。
我が国の新旧の歴史の一端が此処に凝縮されているようで、
「紅葉坂」って、おもしろい所だナ☆
「青少年センター」前に、不思議な形の石像
「青少年諸君 しっかり頼む」だって
これらの建物の奥には、
「横浜能楽堂」
1996(平成8)年 竣工
今日は生憎公開されてなく 見学できませんが、能・狂言の上演が行われる本舞台は
1875(明治8)年 東京・根岸の旧加賀藩主 前田斉泰邸内に建立され、のちに染井の
松平頼寿邸に移された「染井能舞台」を移築・復元したという、歴史あるものです。
能楽堂を含む深い緑のエリアは
「掃部山(かもんやま)公園」
面積 24,727㎡
1909(明治42)年 旧彦根藩有志が、大老 井伊掃部頭直弼の横浜開港の功績を
顕彰するため、この地に銅像を建立し 「掃部山」と名付けたのに始まるといいます。
のちに井伊家から横浜市に寄贈され、公園として整備・公開されました。
「井伊直弼像」
「正四位上左近衛権中将」の正装像です。 像高 約3.6m 台座高 約6.7m
初代像は1918年に金属回収で撤去され、2代目像が1954(昭和29)年に再建。
「旧井泉」
銅像建立時に、子爵 井伊直安氏より寄贈されたものだそうです。
創建当時のものとされる銅像の台座と共に、市歴史的建造物に認定。
園内にある日本庭園が、井伊家所有当時の様子を偲ばせます。
公園入口辺りからの眺望
もう少し足を伸ばして、「野毛山」の方へも行ってみましょう☆
(続)
今日は、横浜をぶら~り☆
JR「桜木町」駅前のR16を横断し、「野毛大通り」を歩いて行くと
右の横道に入る信号の表示が・・「音楽通り」
何と ステキなネーミング♪
特に音楽が聞こえてくる様子もないけれど・・
とにかく 行ってみましょう。
しばらく行くと、「本町小学校」の前に 何やら人だかり・・・何?
皆さんのお目当ては、どうやらこのクラシックな感じの照明灯のようでした。
歴史探訪ツアーの人達なのかな。
説明板によると;
ここは、日本で最初にガス事業を興した 高島嘉右衛門氏のガス工場があった所で
1870(明治3)年 10名足らずの有志と組織を作り、翌年 石炭蔵があったこの地に
工場を創設。 1872(明治4)年 馬車道に我が国で初めてガス灯を設置しました。
このガス灯と記念碑は、氏のガス会社を前身とする東京ガスが寄贈したようです。
小学校裏の階段を上り、さらに その先の坂を左へ上って行くと
「伊勢山皇大神宮」
主祭神: 天照大神
開港後 横浜の精神的な拠りどころとして、戸部村海岸伊勢の森の山上に
祀られていた神社を 1870(明治3)年に遷座し、国費により創建されました。
創建当初の社殿は、関東大震災で倒壊。
1928(昭和3)年に 神明檜造りの現社殿が再建されました。
横浜の総鎮守
じつは子供が生まれた時 横浜に住んでいたので、お宮参りは此処だったんです
今日も、お日柄が佳いのか
赤ちゃんを抱いた人たちが 次々と。
このあと 「紅葉坂」の方へ、ぶら~り行ってみました☆
(続)
この先に「市民の森」というのがあるというので、
どんな所か ちょっと行ってみようということになりました。
「熊野神社」前の道を暫く歩き、道標に従って左に入っていくと
次第に山道になりますが、しっかり整備された道で これなら安心!
‘森’というほど深くはない感じで ホッ
「天神平広場」
歩いている人のほか、広場のベンチに寝そべっている人や
ゴルフクラブを振っている人など、町の公園のような風景☆
それでも所々に急な階段があったりして、高低差のある土の道を
ツバキ・サザンカ・ウメなど 花を見ながら、気持ちよく歩いて・・ リフレッシュ♪
やがて階段道を下りていくと・・・どうやら、ここが山道の終点のよう。
「杉山神社」
ここ樽町の鎮守さまです。
祭神: 日本武尊
創建: 年代不詳
説明板によると、『新編武蔵国風土記稿』には1411(応永8)年に
鰐口鋳造の記録があり、その頃既に勧請されていたと思われるとのこと。
杉山神社は横浜市内、殊に鶴見川流域に多くあるそうで、「暴れ川」と
いわれた鶴見川の水害除けと豊作を祈願し建立されたのではないかと。
現在は住宅に囲まれたこの神社にも、そうした歴史があるのでしょうか。
そういえば、以前訪ねた葉山の杉山神社も 棚田の近くにありましたっけ。
杉山神社は『続日本紀』にも登場する 歴史と格式のある神社ですが、
ご祭神が日本武尊であったり大巳貴命であったり素戔嗚尊であったり
など、よく分からない点も多いミステリアスな神社でもあるようですね。
梅林から市民の森を ぶら~り散策して
16,475歩
東急東横線「大倉山」駅から、左へ続く「レモンロード商店街」の先の
「大倉山」交差点で左折し「綱島街道」へ。 その先の「熊野神社入口」の
信号を右へ入って200mほど歩いて行くと、左側に 鳥居と長い石段。
「師岡(もろおか)熊野神社」
祭神:伊邪那美尊・事解之男命(熊野権現)・速玉之男命
724(元亀元)年 全寿仙人により創建されたと伝わります。
拝殿: 権現造り 銅葺 1884(明治17)年築
本殿: 権現造り 杮葺 1712(正徳2)年築
この地で修行中だった僧 全寿が、熊野権現のお告げを受け大和に赴き
春日大社に参籠して神霊を感得。 この地に戻り熊野権現を祀ったとか。
社紋は熊野三山と同じ、三本足の八咫烏。
熊野権現の使者といわれますね。
「江戸名所図会」に見る「師岡熊野権現宮」
(説明板より)
北条早雲や徳川家康・家光・家綱から御朱印地を与えられたそうです。
「筒粥神事」
(説明板より)
毎年1月14日 境内で行われる神事で、949(天暦3)年より千年余も
続いている粥占い。 筒に入った米粒の数で その年の天候や作柄を
占うというもので、市の無形民俗文化財に指定されています。
「いの池」
神社の向かいに、「い」の字の形をした池。 古くから灌漑用に
利用されてきた溜池で、中央に水神様を祀った小社があります。
この池には片目の鯉が住んでいるという伝説が伝わっています;
全寿が大和から案内してきた熊野権現は 当初この地の人々に
受け入れられず、射かけられた矢が目に当たってしまいました。
そこで権現さまは すぐさま目の前の池の鯉の片目を抜き取って
自分の目としたので、人々は畏れ入って権現さまを信仰するように
なり、爾来 この池には片目の鯉がいると言われているそうな。
「のの池」
拝殿の奥の本殿の その裏の囲いの中の小さな溜池ですが
近頃流行りのパワースポットとやらだそうで・・
神社の神事には、この池の水が用いられるとか(?)
「いの池」から西500mほどの所に「ちの池」と呼ばれる溜池も
あったけれど、埋立てられて今は無いそうです。 「い・の・ち」の
3つの池の呼び名は、嘗ての時代の人々の水への関わりの
深さを表すものである、と説明板に書かれてありました。
池の横から、階段を上って行くと・・
「権現山広場」
標高 約43mの此処は、縄文前期~中期前半の貝塚跡です。
「師岡貝塚(別称:権現山貝塚)」と呼ばれる 市指定史跡。
規模は東西約20m、南北約15m。
そこからの眺め
あずまやで ちょっとひと息入れるとしましょうか☆
貴重な晴れ間です。
急いで洗濯物を干してから、いそいそ観梅ウォークへ
「大倉山公園」
もとは、昭和初期に電鉄会社が集客のため整備開発した「太尾公園」。
実業家 大倉邦彦氏が「大倉精神文化研究所」を開設。 のちに横浜市が
敷地・建物の寄贈を受け、1984(昭和59)年に都市公園として開園。
敷地面積 6.9ha
「大倉山記念館」
「大倉精神文化研究所」の建物。 1932(昭和7)年 築
建築家 長野宇平治氏が設計。 市指定有形文化財
内部は以前見学したので、今回は外観のみ。
「梅林」
当初からあった梅林は、一時は1,000本超の規模だったといいますが
戦中戦後の衰退を経て、1987(昭和62)年 市によって園内が整備され
現在は 1.1haの園内に、紅白の梅が約150~200本ほどあるそうです。
花はもちろん綺麗ですけども、付いている名前もなかなか素敵で
名札を読み上げながら歩くのも、また 楽しいんです☆
月影
見驚 紅千鳥
八重旭
白玉梅
淡路枝垂
緑萼梅
今日はポカポカの春の陽気でしたね!
「横浜」駅の東口から「金港橋」を渡り、右の方へ。
「シーバス」乗り場を過ぎて、歩行者用トンネルを抜けて行くと・・
のんびりと日向ぼっこが楽しめる 静かな空間が広がっています。
「ポートサイド公園」
この辺りは、「アート&デザインの街づくり」をコンセプトに再開発された地区。
マンションなどの高層ビルが並ぶ水辺に沿って、
ケヤキ並木やベンチ、そして400mほどのボードウォーク。
‘アートな街’は、道しるべもおしゃれ☆
わざわざ残されたという葦原の向こうに、「みなとみらい
地区」のビル群。 貨物列車が走っているのも見えます。
ターミナル駅から至近の まさに都会のオアシスですね。
夜はきっと、夜景もきれいなんでしょうね!
「宿場そば」を完食して、満腹度は120%~
お腹ごなしに、周辺を もう少しぶら~りしてみましょうか☆
「神奈川台場公園」
江戸末期 横浜開港に伴い、幕府が伊予松山藩に命じ海上警備のため
築造した「神奈川台場(砲台)」は、総面積 約8千坪(約2万6千㎡)
設計者 勝海舟、工費約7万両、工期 1859(安政6)年~1860(万延元)年。
横浜港沖合に造られた扇型の人工島で 14基の大砲が設置され、
東西2本の取渡り道で陸地と結ばれていました。
1899(明治32)年までは 礼砲や祝砲の発射施設として使われましたが、
1921(大正10)年頃からの埋め立てで、現在は大部分が地下に埋もれています。
この「神奈川台場公園」の地下には、西取渡り道が埋まっているそうで、
2008(平成20)年の発掘調査で、その位置や構造が明らかになったとか。
(以上 説明パネルより)
公園のすぐ近くに、当時の石垣が残っています。
この光景は、はて? 見覚えがあるような・・と思ったら、
3年前に 旧東海道神奈川宿を歩いたとき 訪ねていました。
「星野町公園」
此処には、まだ新しい碑が・・
発掘された石でしょうか、きれいに並べられてあります。
その近くにある商店の脇にもありますが・・
新しそうに見えるけれど、これも そう?
店が閉まっているので、尋ねることができません。
「幕末の史跡」とか書かれてあるのが見えますが・・
16,242歩
JR京浜東北線「東神奈川」駅を出て R15を跨ぎ、海の方へと
歩いて行くと、工場や倉庫などの建物の間を 運河が流れています。
明治以降 埋め立てが進んだ土地を縫うように通る運河には、積荷を運ぶ
船が往来し、いくつもの橋が架けられました。 船運が減少した現在では、
静かな水面に水鳥たちの姿も見られて、心和む風景をつくっています。
その橋のひとつ 「龍宮橋」
「大正12(1923)年 竣工」とあります。
龍宮橋を渡り終えると、運河の上に残る古い鉄橋。
物資の輸送に使われたのでしょうか。
今では すっかり錆びついていますが・・・
道の右側には、貨物専用の「東高島駅」
その先の踏切は、現役の貨物線路。
‘鉄男クン’達がカメラを構えているので、何が来るのかと見ていると・・・
あ、「こまち」のボディを運んでる~!
踏切を過ぎると、右側は新しい街
「ヨコハマコットンハーバー」地区
嘗て埋立地一帯にあった工場などの跡地を、2003~2007年にかけて
再開発した地域で、高層マンション・公園や店舗・結婚式場などがあります。
地名の「コットン」は、「洗い晒しの木綿のような自然な手触りの心地よさを
目指す」という意味と、近隣に綿花倉庫があった綿花町の名に由来するとか。
地区の周辺を囲むように、海に向かってぐるりとボードウォーク☆
嘗て此処にあり、初代南極観測船「宗谷」を建造した「浅野ドック」跡の碑があります。
ボードウォークからの眺めもステキです!
ポカポカ陽射しの中を気持ちよく散歩したら、小腹が空いてきました。
来た道を戻り、「東(あずま)」という老舗の蕎麦屋さんで お奨めの「宿場そば」を・・
箱型の大きな器に盛られたお蕎麦の量に 驚いた!!
コシの強い美味しいお蕎麦だったので、がんばって完食~
この辺りに青春の思い出があるという Nさんの
センチメンタルウォーク(?)にお付き合いして・・
(続)
近代的なみなとみらい21地区をあとに、JR[桜木町」駅を過ぎた辺りから
街は一気に 庶民的で親しみやすい雰囲気になります。
数年前まで この辺りの趣味の教室に通っていたので、ちょっと懐かしい♪
仲間とよくランチしたお店などもあって、今も殆ど変わってないみたいです。
飲食店などが並ぶ野毛の小路を抜けて行くと、川の畔へ。
二級河川 「大岡川」
春には 満開の桜並木に人が溢れますが・・
だいぶ紅葉してきました。 これもなかなかいい眺め
桜の下の煉瓦道を、少し
ぶら~りしてみましょうかね☆
「長者橋」の袂に・・「長谷川 伸の碑」
長谷川 伸氏
(1884-1963)
小説家 劇作家
大岡川畔の土木請負業の家に生まれましたが、家業没落のため
小学校低学年で勉学を諦めて波止場小僧となり、苦労して独学。
のちに新聞社で演芸欄担当記者となり、1914(大正3)年頃から
新聞小説を書き始め、‘股旅もの’のジャンルを開発。山岡荘八・
池波正太郎などを育て、大衆文芸・演劇の向上に尽力しました。
代表作に『瞼の母』 『沓掛時次郎』 『雪の渡り鳥』など。
「日ノ出湧水」
野毛山が水源といわれる水が、豊かに湧出しています。
現在は、飲用はできないようです。
野毛山周辺は元々湧水に恵まれた地域で、明治初期から
湧水を利用した給水業者が活躍。横浜港に寄港する船舶に
飲用水を提供していたといわれます。
「道慶地蔵尊」
江戸・明暦の頃、道慶という雲水が住民の生活の難儀を救うため
地蔵堂を建てて祈り、1658(万次元)年 独力で木橋を造ったとか。
その遺徳を偲び、今も地蔵尊を祀り 石碑が建立されています。
お堂の傍に 現在の「道慶橋」
錫杖を思わせる親柱の装飾が おしゃれ~
このあとも、ぶらりぶらりと京急線「上大岡」駅まで
桜並木の下を 落ち葉を踏みながら・・
20,849歩
今日は すっきりと
横浜・みなとみらいで ショッピングのついでに、ぶら~り☆
赤い三角帽子のおねえさん達が、ツリーの飾り付け。
もう、そんな季節なのね~
こちらのショッピングモールにも☆☆
暑い暑いと言ってる間に、気づけばもう お歳暮の季節。
心が、少しワサワサしてきます・・・
久しぶりに、山手の高台に公開されている洋館を巡ってみましょうか。
おやおや・・?
今日は何か 様子がちょっと違うようですね~
通りのあちこちに・・・魔女がゾロゾロ☆
大人も子供も仮装して・・
ハロウィンウォークのイベントのようでした。
たくさんの人が、フェイスペインティングを施したり 仮面を被ったり
思い思いに工夫を凝らし、物語のキャラクターになり切っていたり・・・
見ているだけでも 楽しい~~♪♪
(後姿を遠慮がちに無断撮影・・・ゴメンナサ~イ!)
洋館内部の飾り付けも、ハロウィン一色です。
ハロウィンはもう、すっかり日本人にも馴染んでいるんですね☆
18,933歩
やっと 秋らしい爽やかな青空が広がりましたね~☆
好天に誘われて、山手地区にも大ぜいの観光客が訪れていました。
山手地区にある 横浜港が一望できる高台は、通称「フランス山」。
幕末 外国人襲撃事件が相次いで発生し、居留地防衛のために
1863(文久3)年以降12年間、フランス海兵隊が山手居留地に駐屯
していたことから、「フランス山」と呼ばれるようになったそうです。
1896(明治29)年には、煉瓦造り2階建のフランス領事館が完成。
(説明パネルより)
関東大震災で倒壊した領事館は、1930(昭和5)年に再建
されましたが、その建物も1947年(昭和22)に火災で焼失し
現在は、その1階部分と井戸の遺構などが残されています。
建物脇にある多翼型の風車は、当時は水道がなかったため
井戸水を汲み上げるのに使われた動力装置で、当時のものでは
ありませんが、フランス山のシンボルとして復元されたものとか。
領事館跡のすぐ傍にある展望台から、眼下に横浜港が望めます。
『 航海の安全を祈る 』
2011年に公開されたジブリのアニメ映画「コクリコ坂から」は
1963年頃の横浜が舞台だそうですね。
「港の見える丘公園」のローズガーデン
あまりに好いお天気なので、このあとも もう少し山手を歩いてみようかな~
京急「金沢文庫」駅から、R16を品川方面に10分ばかり歩いて
「片吹」という信号を 少し過ぎた左側にある地下歩道をくぐり、
右手の住宅地の坂を上って行くと、突き当たりに石段が数段。
「海蔵山 太寧寺」
臨済宗のお寺。
本尊: 木造薬師如来立像
(檜寄木造・鎌倉時代)
日光・月光両菩薩像と共に安置されているこの御像には、
こんな逸話が伝わっています;
昔 村の貧しい娘が、早死した両親の供養に線香を買うために
紡いだ麻糸を織機にかけるための‘へそ’と呼ばれる糸玉を拵えて
村中を一生懸命に売り歩きましたが、なかなか売れませんでした。
すると、
疲れ果てた娘の所に1人の男の子が近づき、母親に言いつかったからと
‘へそ’を全部買ってくれ、娘は無事に両親の供養をすることができました。
その後、
お寺の本堂の薬師像の前に積まれた‘へそ’を見つけた娘は、
あの男の子が薬師様の化身であったことを知ったのでした。
それ以後、この薬師様は「へそ薬師」と呼ばれるようになったそうです。
境内には、源義朝の六男(頼朝の義弟) 範頼のものと伝わるお墓があります。
当寺の名称は、範頼の法名「太寧寺殿道悟大禅定門」によるとのこと。
此処には、範頼の位牌や画像などが寺宝として遺されているそうです。
「伝源範頼公墓所」
中央のひとまわり大きな五輪塔が それでしょうか。
周囲の塔は、付き従った人達のものかもしれません。
範頼は 源氏再興の旗を揚げた頼朝を援け、義弟義経と共に各地で奮戦し
壇ノ浦で平家を滅ぼしました。その後頼朝に謀反を疑われて伊豆・修善寺に
幽閉され最後を遂げたとされていますが、当寺の寺伝によると、範頼は
修禅寺を脱出し浦郷鉈切(横須賀市)に逃れましたが、鎌倉方に知られる
ところとなり、当時瀬ヶ崎にあった太寧寺で自害したと伝えられています。
(範頼の位牌は、市内の薬王寺にも残されており、また
墓は、静岡・伊豆市と埼玉・北本市にもあるとのこと。)
「雲語子之墓」
江戸時代の漢方医 小川笙船(号・雲語)のお墓です。
小川笙船こと藤原廣正(1672-1760)は、身寄りの無い者や生活困窮者の
ために施薬院の建設を願い出て 第8代将軍 徳川吉宗に許され、1722年
江戸「小石川養生所」の初代肝煎(医院長)に就任しました。 (その活躍は
山本周五郎の『赤ひげ診療譚』の主人公のモデルとして描かれています。)
2代目肝煎の座を息・隆好に譲って隠居し、晩年の3年間をここ金沢の地で
過ごしました。 死後、小石川・光岳寺に埋葬(後に雑司ケ谷霊園に改葬)
されましたが、遺言により 当時瀬ケ崎にあった太寧寺に歯が納められたと
いうことです。(その後 瀬ケ崎が軍事施設工事により、寺は現在地に移転)
笙船の言葉が刻まれてあります。
『山に居るときは海を語り 海に居るときは雲を語る』
静かな境内に、歴史の一片がひっそりと遺されていました。
馬車道
「県立歴史博物館」が面している通りは
「馬車道」
その名の通り、幕末 日米修好通商条約の締結によって港が開かれ、
外国人居留地から港へ行く所謂「異人馬車」が往来していたといいます。
通り沿いに、今もその面影をとどめる
「牛馬飲水」の施設
港に直結し、外国文化のいわば玄関口だった場所柄、‘我が国初’
とされるものがいろいろ誕生したといわれ、それらを記念し将来に
伝えていこうという思いが、通りの其処此処に感じられます。
例えば;
アイスクリーム発祥の地 記念
「太陽の母子像」
(この画像は、馬車道商店街のサイトから拝借しました)
1869(明治2)年 町田房蔵という人が氷水屋を開店し、
「あいすくりん」という名で売り出したそうです。
像の制作は、本郷 新氏 1976(昭和51)年
近代街路樹発祥之地碑
1867(慶応3)年 馬車道の商店主達が、通りに沿って柳や松を
植えたといわれます。 今は、アキニレが緑陰を作っています。
碑は、1979(昭和54)年 建立
最初のガス灯(復元)
1872(明治5)年 高島嘉右衛門がガス会社を設立。
ガス灯10数基が初めて設置されました。
馬車道の周辺にはまた、県立歴史博物館のほかにも
歴史的に貴重な近代建築が残されています☆
「旧 横浜生糸検査所」
(横浜第二合同庁舎)
1926(大正15)年 建造
1995(平成7)年 改築
「旧 安田銀行横浜支店」
1929(昭和4)年 建造
「旧 東京海上保険ビル」
(馬車道大津ビル)
1936(昭和11)年 建造
「旧 川崎銀行横浜支店」
(日本興亜馬車道ビル)
1922(大正11)年 建造
1989(平成元)年 増築
関内辺りを歩いていると、このような歴史的建築が数多く見られます。
街の風景に溶け込み 今も現役バリバリなんて、スゴいですよね!
いつか機会があれば、ゆっくり見て廻りたいなぁ☆
「神奈川県立歴史博物館」は、旧「横浜正金銀行本店」の建物。
大変重厚で、威厳に満ちた「顔」をしています。
1904(明治37)年 建造 国指定重要文化財
屋上ドームは、関東大震災で焼失したため 1967(昭和42「)年に造られたもの。
それでも既に、50年近くの歴史を刻んでいるわけだよね~
入口の、いかにも重そうな扉(の片方)
赤絨緞が敷かれた石の階段を上って行きます。
何だかドキドキしちゃいます(笑)
左右の壁は大理石?
木製ドアの先は・・
ホール天井の照明
低い天井、分厚そうな漆喰壁の廊下を通って展示室入口に向かいます。
狭い廊下の左右にある部屋の扉も木製で、丸いドアノブにもレトロ感☆
喫茶室になっている部屋に入ってみました。
鉄製の窓枠に、丸いハンドルが付いています。
多分 上の窓の開閉に使うのでしょうね。 どういう仕掛けになっているのかな?
そういえば・・
博物館に近い 市営地下鉄みなとみらい線「馬車道」駅構内には、
横浜正金銀行で使用されていた金庫室の扉や温水ボイラー、
手摺等の構造物が壁に埋め込まれて保存・展示されていました。
初めて見たときは、いったい何のオブジェかと思いました。
歴史の記憶を保存・・・おもしろいアイディアだな☆