今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

大荒れの日本

2013年09月04日 | お天気
朝の震度4の地震(関東)に始まり、今日は大荒れだった。
名古屋も中心部で膝までの冠水。
200万都市・名古屋全域に避難準備情報が発令された。
名古屋をはじめとして数カ所で時間雨量が100mmを超えたなんて信じられない。
大気の水蒸気量が異常に多いようだ。

私は夕方帰京しようと名古屋駅に行ったら、新幹線が午後1時から運転見合わせ状態で、
構内は人であふれている。
新幹線だけにビジネス客や団体客が多く、なんとしても今日中に乗ろうと、
床に座って覚悟を決めている。
この状態だと、運転が再開しても、ホームに人があふれ、
しかも大阪からすでに満員状態のはず。
すなわち、運転再開のめどがつかず、再開されてもいつ乗れるかわからない。

幸い、私には名古屋市に棲み家があるので、今晩はそこに戻ればいい。
地下鉄沿線なので大丈夫だろうが、地上を走る鉄道はほとんど運休しはじめている。
迷っている暇はない。
いそいで棲み家に戻った。

タイミング悪く、棲み家のパソコンは修理に出したばかり。
なので手元のこのiPadminiにブルートゥースのパソコン用キーボードを認識させて
この記事を打ち込んでいる。
その最中、なぜか、2回もアプリが落ちた。

翌朝のニュースによると、
名古屋駅の新幹線内で一夜を明かした人がいたそうだ。
そうならないでよかった。

越谷竜巻

2013年09月03日 | お天気
2日に埼玉県の越谷で発生した竜巻はフジタスケール(Fスケール)でF2だという。
ちなみに、フジタスケールは、竜巻研究の第一人者である故藤田哲也氏によるもので、
日本が世界に誇る功績の1つ
(現在のアメリカではフジタスケールの改良版EFスケールが使用されている)。

巨大なスーパーセル(1個の巨大積乱雲)が東京から観察されたというが、
14時の衛星画像では、まだかわいい大きさで、
30分ごとの衛星画像を追うと、竜巻が消えた後の15時に、雲は丁度千葉を抜けて茨城南西部に達し、
昨年の筑波竜巻のスーパーセル並みに成長する。

衛星画像だけから推測すると、竜巻はスーパーセルの最盛期ではなく、成長期の段階で発生したかもしれない。
住民の映像によると雲底がかなり低かった事から、積乱雲の下層だけでミクロな擾乱が発生したのだろうか。
発生時である14時の地上の風向をアメダスで確認すると、
埼玉と東京の境あたりで北風と南風が、すなわち寒気と暖気が激しくぶつかり合っている。
そこでは地上で強い上昇流が発生し、それが栓を抜いた浴槽の湯のように回転運動化したのかもしれない。

木造の剣道場が土台を残して吹っ飛んだように、物的被害は大きかったが、死者がなかったのは幸い。
これは昨年の筑波よりスケールが小さく、飛ばされた人も距離が小さかったためでもある。
F2レベルなら、家の中(1階の中央かトイレ・浴室)での避難で間に合う。

ただし、筑波のF3さらにアメリカのトルネード(F4クラス)だと、日本の木造家屋では完全に破壊される
(筑波の死者は家の中にいた)。
その場合は鉄筋ビルの地階に避難するしかない。

ということは、竜巻の発生と進路について、リアルタイムな情報が必要となる
(今回証明されたように、気象庁の竜巻注意報は精度も確度も役に立たない)。
日本にもいよいよトルネード・ハンター(トルネード・チェイサー:竜巻の追っかけ)の登場が待たれるか。
私は定年退職後に命を懸けた道楽としてやりたい(重装備の車が必要)。

竜巻に関心をもった人は、ぜひ竜巻映画の金字塔「ツイスター」を観てほしい。
F2からF5までの竜巻の挙動とそれを追いかけるトルネード・ハンターたちがリアルに描かれている。

あまちゃんの3.11

2013年09月02日 | 作品・作家評

「あまちゃん」のドラマがとうとう2011年3月11日の午後2時46分を迎えた。
この番組の制作の1つの発端なった瞬間である。

いやそれだけでなく、少なくとも東日本の人間にとって、
この瞬間を再体験する事で、あの時の自分に引き戻される。

それは、今地震を体験している天野あきたちと、震災を体験した自分との”今”が共通化された瞬間でもある。
この時から、あまちゃんは他人のドラマではなく、われわれのドラマとなる。
(ちなみに半沢直樹はリーマンショック前の時代設定なので、あまちゃんよりも昔の話だ)。

9月2日の放映分では東京と北鉄車内のシーンだけなので、岩手の故郷の人たちの安否は定かでない。
ただ、北鉄の無線によって、多くの人たちは多分津波の前に避難を開始したことはわかった。

この番組は、本来、人々を元気づけるためのものだから、心痛む悲劇にはならないと思うが、
残り1ヶ月を切り、終結に向かう「あまちゃん」は、天野あき個人の東京でのサクセスストーリーではなく、
被災地の復興の象徴を意味することになるはずだ。
ますます見逃せなくなってしまった。

それから今日の放映でつくづく思ったのは、小野寺ちゃんの家族が「災害伝言ダイヤル」を利用していれば、
皆であんなにやきもきすることはなかったのに、ということ。

読者の皆さんも「災害伝言ダイヤル」の使い方をマスターしておきましょう。


ネットでの自己表現

2013年09月01日 | 時事
9月1日は、1月1日、4月1日に次いで、本来なら1年のうち3番目に気分一新になれる日なのだが、
今日のように東京で37℃を超える猛暑だと、まだとうてい8月気分から抜けられない。
ただし地上天気図も高層天気図もともに秋口の気圧配置になっているので、
秋は確実に近づいている。
もう少しの辛抱だ。

さて、
今夏は、あちこちで若者がバイト先の飲食店などで馬鹿な写真をネットに晒して、結果自分に災いを招いていた。
自己表現欲求を満たしたいのであれば、誰でも出来る安直な受けねらいで満足せず、
きちんと自己表現のトレーニングをすべきだ。
それが出来るのがIT技術なのだから。

そもそも現代は、誰もが情報発信者すなわち表現者になれるすばらしい時代。
パソコンのコンセプトをその提唱者アラン・ケイから(本で)学んだ私は、
パソコンをマルチな自己表現ツールとして使うよう教育してきた。
アラン・ケイの更なる師、マーシャル・マクルーハンに言わせれば、
パソコンは自己の”脳”を拡張するものだ。
ところが世間は、デジタル技術を人間を怠惰にするという意味での便利なものと勘違いしている。

「バカ発見器」と言われるツイッターは、何も考えず(試行錯誤せず)脊髄反射的な応答ですませられる(LINEも同様か)。
フェイスブックは、同窓会的情報交換としてはまぁ価値がないこともないが、
ほとんど無意味な情報でさえ、友だちとの「いいね」の押し合いで満足してしまう低レベル性が問題。

自己表現ツールとしてやり甲斐があるのはブログだ。
ブログは見えない不特定多数を相手にしているからこそ、表現に気を使う。
もちろん、著作権とプライバシーの保護、それに公序良俗違反にならないことは言うまでもない。
そういう最低限レベルではなく、
文章表現として誤解されず、効果的な日本語となるべく推敲することに価値がある。
すなわち情報の付加価値をいかに高めるかに神経を使う。
この記事のレベルの文でさえ、推敲を繰りかえして幾度も打ち直している。

言い換えれば、誰でも書けるような安直な情報は社会的価値がない。
たとえば、フェイスブックでは、「今日~に行ってきました」的簡単な情報が写真つきで、
まさに友だちの数だけ毎日並ぶが、
正直いってつまらないのでもう毎日開く気がしない。

今日行った先を記事にするなら、ブログだったら行き先についての詳しい情報か、
旅行記としての読み物的価値が必要となる。
なにしろ、評価の高いブログは、そのまま本として出版されるほどだ。
ネットに情報を流すなら、そこまで苦労しないと。

デジタルメディアは自分の表現力を鍛えるためにある。

一人一人が公的意識をもった自己表現者になること、
それは自己の能力の、自己の存在意義の社会的実現でもある。
それがマクルーハンやケイそしてジョブズが理想(ビジョン)としたIT社会だ。