今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

若かりし頃の日記を処分

2009年07月11日 | 生活
私は中学から大学院に至るまで、すなわち10代前半から20代半ばまで、
ほぼコンスタントに日記をつけていた。
それらが合計4冊の大学ノートとして残っている。

当然、思春期~青春時代の赤裸々な内面を記したモノなので、
他人に一番見られたくない、超極秘文書だ。
でもそれが、普通の手書きノートとして家に置かれているので、
見つけられたら誰にでも読めてしまう
(一部は小学校時代に開発した自分固有文字で記してあるので解読不能)。
パソコン内のデータはセキュリティにこだわっているのに、
この超極秘文書についてはまったく無防備状態。
たとえば私の死後に、この日記群が発見され、
せっかく取りつくろってきた私のイメージが悪化したら…。

それに捨てるといっても、そのまま資源ゴミとして出しても、
再生処理される前に世間へ流出する危険はある
(少なくとも興味本位で読まれてしまう可能性が…)。
かといって自らシュレッダーなどで粉砕して出すのは、
労力と愛着の双方の点からできない。

そんな折り、職場で、機密文書の溶解処理をすることになった。
処理をする書類は自分で段ボールに入れて封をするから、中身は確認されない。
これに混ぜれば、わが超機密文書は安全に消滅される…と思う。

ただし、自分の青春時代の思い出そのものである日記を捨てることは、
過去の記憶までも捨ててしまうようで、躊躇する部分もある
(今まで捨てなかったのはむしろこの理由が大きい)。

でも、ただ保管しているだけの意味(もちろん自分自身に対する)ってあるだろうか。
ためしに、中学~高校の部を読み返してみた。
すると、友人や家族に対してやたらぷりぷり怒っていた。
日記は、日常のちょっとした不満のはけ口になっていたようだ。
その他、たとえば恋愛関係でわくわく/懊悩した部分などは
今更こっぱずかしくて読むに堪えない。

日記に記す作業は心に刻む作業でもあるので、
日記に記したおかげで、わが青春時代の記憶も、実はしっかり心に刻まれている。
なので、読み返しても、新鮮さがなかった。
逆に記憶にないエピソードは、今読み返してもどうでもいい茶飯事にすぎない。

それに、ノートが新巻になるごとに、
「他人に読まれるに値する日記を目指す」と書いてあった。
日記文学者をめざしていたというわけではなく、
文章の練習としての側面もあったのだ。
でも、それならブログという形で今こうして実行している。

そういうわけで、やっとわが日記をこの世から抹消する決心がついた。
青春の記録を失う寂しさより、
これで超極秘文書の管理が不用になるという安心が勝る。

さて、みなさんは昔の日記、どうしてます?

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。