今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

『存在と時間』と再格闘へ

2024年09月29日 | 作品・作家評

我が大学院の後期授業『社会心理学特講』に久しぶりに受講生がついた(公認心理師指定科目でないので、受講が必須でない)
実はその授業は、表向きは社会心理学と称しているが、裏のテーマは心理学批判で(学部の授業では不可能)、科学的と称する現代心理学が無視している人間の”存在”の問題(人が一番気になっている問題)に焦点と当てるものだ(以上をシラバスに明記)。
そしてその問題のアプローチとして、ハイデガーの『存在と時間』の論旨を紹介する。

そもそも現象学派だった私が、フッサール(認識論)からハイデガー(存在論)に宗旨替えをしたのはこの書のインパクトだった。

その後は、ハイデガーの後続する書(日本語訳)を読み進め、後期思想のキーワードである「性起」(しょうき)に関心が映ったが、彼のその後の作業は、未完で終わった『存在と時間』の追補とも言える。

言い換えると、ハイデガーの思惟の展開を知れば知るほど、その原点と言える最初のこの書をもう一度(幾度も)読み直したくなる。
今回の受講生の出現は、その後押しとなった。


このように私にとって『存在と時間』は今後も再格闘する書なのだが、実はそういう書、すなわちまだ読みこなし切れていない(格闘し続けている)書がもう1つある。
道元の『正法眼蔵』、とりわけその中の「現成(げんじょう)公案」と「有時」の巻。

なんと後者「有時」って「存在・時間」ではないか。
実際、『存在と時間』を『有と時』と訳している翻訳書もあり(日本語としてはその方がしっくりくる)、性起は”現成”することと説明される。

奇しくも、20世紀最大の哲学者と日本史上最高の鎌倉時代の仏教哲学者が同じテーマを問題にしているのだ(人間にとって最重要の問題だから当然か)。
古今東西の智を総動員して存在の問題と格闘すること自体が、この世に人間(自分が存在していることに薄々気づいている稀有な存在者)として存在している意味の理解にも繋がり、やり甲斐を感じる。


そして、道元からではなく、ハイデガーから始めたいのは、ハイデガーの人間(現存在)モデルが、本当は”存在(自分が在る)”のことを真剣に考えたいのだが、その先にある「死」の不安に怯えてしまい、日常の忙しさに身を委ねて、結局時間を無駄にして歳だけとってしまった自分に焦る、という実に自分に等身大の姿だから。
このような現存在(私)でありながら、存在を考える、いや存在を噛み締めて生きていくにはどうしたらいいか、そこを一緒に考えてくれそうなのがハイデガーだから。
でもハイデガーの中だけでは回答が見つからず、きっと道元に行かなくてはならない気がするのだ。
※:ハイデガー自身が、西洋(古代ギリシャ)的思考だけでは無理で、その枠を脱して惑星(地球)的思考で取り組むべきだという地点まで達して息絶えた。

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