今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

仏教における神話:輪廻転生

2024年01月30日 | 仏教

システム2で構築される物語すなわち、事実でない空想に基づくストーリーが、宗教の構成要素となっている部分が”神話”である。
そしてその神話性が、科学的知性を持った現代人にとっては、宗教のアキレス腱となる。

旧約聖書(創世記)や古事記が典型的神話だが、本来は神話的でない釈尊の仏教にもその要素がある。

これは釈尊が創作したというより、当時のインドで常識となっている神話、すなわち仏教においてもデフォルト(所与)の部分である。
つまり仏教もそれを前提せざるを得なかった神話である。

何かといえば、輪廻転生

釈尊自身の教え(仏説)は、輪廻転生の無限のサイクルから脱することを目標としたものだが、それは論理的に輪廻転生が前提(承認)されている。

例えば、日本で活躍しているテーラワーダ仏教の長老・スマナサーラ師が説く「アビダンマ講義」においても、大乗仏教の数々の神話(例えば阿弥陀如来や釈迦の前世譚)は批判するものの、やはり輪廻転生を前提としている。
※:『ブッダの実践心理学』サンガ新書

しかもただ前世があるというだけでなく、日本仏教でいう六道、地獄とか天界の存在を前提としている。

例えば、人間レベルで真っ当に精進して欲界を脱すれば、来世は梵天(ブラフマン)の世界に転生できると述べている。

それに対し、前記事ごまかさない仏教で紹介した佐々木閑氏と宮崎哲弥氏は、輪廻転生を信じることができないと述べている。
それは現代の科学教育を受けた知性にとっては当然で、ある現象が存在すると主張するなら、主張する側がその現象の存在を立証しなくてはならない。
そしてきちんと立証できないものは、存在すると認められない。
なので、輪廻転生の確たる証拠が提示ない限り、それを信じないのは、現代的知性にとって当然。

本来、こういう再生の繰り返しは、死(無)の恐怖を和らげるための霊魂不滅的な神話化だったはず。
たとえば、「死ねばあの世(死後の世界)に往く」というのが最もシンプルな神話。

ところがインド固有の業(カルマ)の応報と再生レベルの多層化という物語の複雑化によって、輪廻転生自体がとても面倒で苦痛なものになってしまった。
そこで仏教では、現生の苦(生老病死)のより根源的な輪廻転生の苦(生老病死の無限サイクル)から脱する方向を志向した。

目指すそれは「無為」の「滅尽定」の世界、すなわち「涅槃寂静」の世界である。
どんな世界かというと、光も時間経過もない世界、すなわち「永遠の暗黒」という無の世界だ。

待てよ、それって、唯物論的科学思想が想定する死の世界ではないか。
我々はその永遠の暗黒を恐れたはずなのに、仏教ではそれが目指すべき境地になっていた。

という事は、輪廻転生を信じず、死とは永遠の暗黒に帰する事という現代人の死生観は、そのまま涅槃寂静への道を進むことになる。
すなわち輪廻転生を信じない我々現代人にとっては仏教は不必要となる。

これでいいのだろうか。

実は、スマナサーラ師によれば、輪廻は死後の世界の現象ではなく、現世で既に発生している、すなわち我々はすでに現生で死と再生を繰り返しているという(刹那滅)。

ただし、多くの人はすでに輪廻転生を信じていないだろうから、この神話を批判する作業は省略する。
続く。