今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

『ごまかさない仏教』佐々木閑・宮崎哲弥

2024年01月14日 | 仏教

私は小学校四年生の頃から、就寝時に、自分もいつか必ず迎える”死”とは永遠の無になることであるということに気づき、それを思うだけで、恐怖心で心臓が高鳴って思わず起き上がり、動悸がおさまるのを待つようになった。

そして、もうこの当時で、”天国”や”霊魂の不死”あるいは”不老長寿”などはごまかしの論に過ぎないことが子どもながらにわかっていたので、それらにすがることもできなかった。

だが、この認識(恐怖)を家族に伝えることもできず(無意味だから)、同年代の友人たちとも共有できなかった。

実際、その後、中学や大学でも友人たちと死を話題にした時はあったが、彼らの多くは、死一般を語っても、そこに”自分の死”という視点がなかったので、私のような”死”への不可避な絶望感は共感されなかった。

本書『ごまかさない仏教:仏・法・僧から問い直す』(佐々木閑・宮崎哲弥 新潮社 2023年)で、対談者の一人である宮崎哲弥氏も私と同じ経験をしていたことを知った。

私自身、後年、このような”自分の死”の問題を真正面に取り組んだのが、2500前の釈尊だと知った。

釈尊の教えとしての仏教(死後、三途の川を渡って閻魔様の裁きにあうとかいう通俗的”仏教”ではない)は、他の神話的宗教と違って”天国”や”霊魂の不死”でごまかさない点で、私が唯一接近するに値するものと思えた。

それでいて仏教は、絶望的な死滅観(断滅論)を極端な臆見(ドクサ)の1つとして、不滅論とともに採用しない。

仏教学者の佐々木閑(しずか)氏によれば、断滅を恐怖しない自分を作ることが釈尊の教えによって可能となるという。

そのためには、”自我=私”を実体視することの誤りに気づくことが出発点となる
※:心(=システム2)という実体のない作用が生み出した、いわばホログラム的幻影。
そして龍樹的視点を加えるなら、そもそも私は存在しておらず、かといって存在していないわけでもない(有でも無でもない空)、ということになる。

このような仏教の本質的問題を、基本タームである仏・法・僧から、対談形式で問い直しているのが本書。
タイトルにある「ごまかさない」は仏・法・僧についての形容だが、上記したように”自分の死”の問題も含まれている
※:これと輪廻転生との関係は、業(カルマ)の問題と絡めて、仏教のアキレス腱といえる。ちなみに両人とも輪廻転生を信じてはいない。

対談の内容は、宮崎氏の知識も相当なので、仏教学の現状や、現代日本で人気があるテーラワーダ仏教における、彼らが準拠しているパーリー語経典のみが真の仏説に最も近いという「テーラワーダ歴史原理主義」なども問題にしているので、仏教の基本と現状について一定の知識がある読者が前提となっている。