今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

記憶は捏造されていた

2023年09月13日 | 心理学

心理学では、人の記憶は捏造されることは周知の事実。
私もそれを命題としては知っているが、体験してはいなかった。

今回、渥美清主演の「男はつらいよ」に接近して、それを痛烈に体験した。

「男はつらいよ」は、映画としてシリーズ化される前に、実はテレビドラマで放映されていて、私自身、かすかに自宅のテレビで観ていた記憶がある(そのドラマが人気を博していて、それが映画化につながったはず)。

その中で一番記憶が鮮明なのは最終回で、寅さんが南の島でハブに噛まれて中毒死するという結末だった。
問題なのは、その最期を見届けた子分が、柴又に戻って寅さんの家族(妹など)に泣きながらその様子を伝えるシーン。
私の映像記憶では、それを伝える子分は秋野大作(ノボル役)で、しかも画面の左側で語っていた。

ところが、この最終回のビデオを見直したら、実際の子分は佐藤蛾次郎(源公役)で、画面の右側で語っている。
番組内では、秋野大作は寅さんと同行せず、近所のレストランでボーイとして働いているシーンがこの場面の前に流れた。

すなわち、私の映像記憶は、実在しない映像だった。
ただ完全に無根拠ではなく、素材が入れ替わっている。
例えばノボル(秋野大作)と源公(佐藤蛾次郎)は、寅さんの子分という関係性では同じ(対等)で、物語の構造的には入れ替わり可能。
さらにノボルは泣き虫だったので、泣いている子分=ノボルという結びつきができやすかったかも。

だが二人の外見・風貌は全く異なるので(佐藤蛾次郎があまりに個性的)、視覚的記憶として入れ替るのはあり得ない(佐藤蛾次郎を秋野大作に見間違えることはあり得ない)。
語る映像シーンが左側(記憶)と右側(実際)と正反対なのも、視覚記憶の脆弱性を示している。

ということは、記憶の捏造は、知覚的類似性よりも、物語的構造の論理(整合性)の方がまさっていて、自分で(納得できる)物語を再構成してしまい、それを頭の中で映像イメージとして捏造したようだ。
作られた映像記憶によって、自分でも「そのシーンを見た」と思い込んで、その後はいつでもイメージ再生できる。

記憶そのものは動物と共通するシステム1の機能だが、現実にない場面を創造するのは、人類固有のシステム2のなせるわざ。
システム2の「物語化」という志向性の強さを痛感する。

人間の頭の中は、事実ではない「物語」が充満している、ということだ(本記事の説明の論理もシステム2による)。