東京港区の国道1号線に「魚籃坂下」(ぎょらんざかした)という交差点があり、そのインパクトのある名前で一度通ると忘れないため、その地に縁の無い私も聞き覚えがあった。
その地には当然、魚籃坂という坂があり、その坂の途中に名前の元となる魚籃寺という浄土宗の寺がある。
その寺は、本尊が魚籃観音で、それを寺名にしている。
この「ぎょらん」づくしに心引かれ、その元であるご本尊を拝みたいと思っていた。
観音は33の変化(へんげ)をするといい、聖観音・如意輪観音・十一面観音・千手観音などはよく目にするが、魚籃観音はなかなかお目にかかれない(東海道線の早川駅から見える観音像が該当)。
そういう希少性も加わり、ますます心引かれる。
そしてのここのご本尊、開帳は年に1日だけという。
その日が今日なのだ。
緊急事態宣言下の東京、都知事は外出をしてくれるなと訴えているが、背に腹はかえられない。
いや、外出そのものはまったく問題ない(これについては別記事で)。
地下鉄南北線の白金高輪で降りる。
制服姿で歩いているのは普連土学園の生徒(JC,JK)たち。
まずは魚籃坂下の交差点を渡り、魚籃坂を上って意外にこじんまりした魚籃寺に達する(地名になっているほどの大寺と勝手に想像)。
早速本堂に向うが、扉が閉まっている。
窓が開いているので、中を除くと、椅子が並んでいる。
法事の後に拝観できるらしいのだが、丁度中にいた住職に窓の外から声をかけ、
拝観しにきたというと、コロナで法事を中止したという。
要するに人を堂内に入れない措置。
仕方なく、窓の外からご本尊を遠望するだけ(写真)。
魚籃観音は、魚の篭(籃)を右手に下げているのが特徴で、
しかもここのご本尊は左手で衣の裾をたくし上げている。
そのサービスが効いてか、存在感が寺を越えて地名にまで拡がったわけだ。
なんとかそのお姿を確認したので、寺を後にする。
ここらは、高輪台の台地にさしかかっており、台地の上にも下にも寺が多い。
なぜか都内の寺町は、ここを含めて谷中も神楽坂も台地沿いで坂が多い。
魚籃坂下から国道1号線を起点(日本橋)に向って進んだ先の長松寺に荻生徂徠の墓がある。
荻生徂徠といえば、我が国歴代第一の儒学者で名高い(もっとも私は『政談』のマンガ版しか読んでいない)。
江戸期の儒学者には仏式埋葬を嫌った人もいたが、徂徠はそんな意固地ではなく、子孫の墓に見守られている。
バスも通る広い道の魚籃坂に平行しているこじんまりした幽霊坂を上る(別に不気味ではない)。
上がった所の玉鳳寺の入口に地蔵堂があり、中にパウダーで真っ白になった地蔵尊がある(写真)。
化粧地蔵といわれ、訪れる人が備付けのパウダーを地蔵様に塗りたくって、願を掛ける。
私も線香を灯して、パウダーをお顔と胸に塗った。
幽霊坂を上がりきった台地(三田台)の上で聖(ひじり)坂※に突き当たり、右折して聖坂を進む。
※:高野聖に関係あるらしい。
すると三田台公園があり、ここで縄文時代の遺跡が発掘されたという。
園内に復元した竪穴式住居があり、入口でボタンを押すと、住居内に生活風景を示した人形がいて(写真)、音声での説明が流れる。
東京には京浜東北線の西側の崖の上に沿って縄文遺跡が南北に点在しており、当時は線路より東は海※で、いわば海に面した(安全な)高台だったのだ。
※映画「天気の子」で水没する地帯。
この遺跡のさらに南には有名な大森貝塚(縄文人が食べ捨てた貝殻が堆積)があるように、縄文時代の都民は食料には不自由しなかったようだ。
ただ、江戸の町並みが残る所に行くと、江戸時代にタイムスリップしたくなるが、竪穴式住居を見ても、縄文時代にタイムスリップしたいとは思わないなぁ(朝起きたら、さっそく今日一日の食料探しをしなくてはならないだろうから)。
聖坂を下った伊皿子(いさらご)という交差点で、右から下ってくる魚籃坂と合流し、左側のいわば昔海だった方向の坂(伊皿子坂)をくだっていくと、道往寺という現代建築の寺がある。
都内の観音霊場の1つだというので観音堂を拝む(堂の本尊は聖観音で、左右にいろいろな形の観音像が置いてあるが、魚籃観音は確認できなかった)。
さらに坂を下って幸福の科学の目を引く建物を過ぎると、大きな寺の門前に達する。
高輪一の大寺・泉岳寺だ(あの赤穂義士の墓のある)。
ここは高輪第一の名所だが、すでに訪問済みで、しかもなぜか12月以外はお参りする気になれないので立ち寄らず、
坂を降りきってさらに都心部にはめずらしい開発用の広い空き地がある脇を抜けると、山手線(+京浜東北線)最新の駅「高輪ゲートウェイ」駅に到着。
駅名は残念だが、駅舎は当然最新で、無人のコンビニがあり、階段もホームも床が木で、居心地はいい。
こちらの駅は男子生徒が多く(2つの中高がある:DC,DK?)、それなりの需要もあるようだ。
京浜東北線の快速で帰った。