梅雨(つゆ)空から一転、心地よい晴れとなった日曜の今日は外出日和である。
といっても緊急事態宣言下でもあるので、遠出はしにくい(外出そのものは無問題)。
そこで東京実家からの近場の寺巡りとして、ずっと行きそびれていた新宿の太宗寺に行く事にした。
この寺は閻魔像で有名なのだが、新宿というロケーションが寺巡りの気分と合わないため、いつまでたっても選択肢に上がらなかった(同じ新宿区でも神楽坂ならOK)。
もちろん、新宿という街を忌避しているのではなく、買い物や映画、飲み会だったら喜んで行く。
太宗寺は、新宿御苑に近いのだが、あいにく御苑は閉園中とのこと。
また閻魔像は1月と7月の15・16日にのみ開帳なので、ベストなタイミングではないが、
金網越しに拝めるというので、行く事にした(開帳日は東京にいない)。
地下鉄丸ノ内線の「新宿御苑前」で降り、御苑とは反対側の北に進むと、すぐに太宗寺に着く。
まず出迎えるのが、江戸六地蔵(江戸から出る街道の起点に置かれた)の1つ、大きな(丈六の)地蔵像。
四谷の大木戸から西に進んだこの当りは、甲州街道の入口で江戸時代は内藤新宿といっていた。
地蔵像の並びに閻魔堂があり、ボタンを押すと1分間堂内に灯が点いて、中の閻魔像と奪衣婆が金網越しに拝める。
閻魔像は正面(写真)、奪衣婆は左端にある。
両像とも大きく、特に明治に作られた奪衣婆は不気味な風貌。
境内反対側の墓地には、甲州街道を参勤交代した数少ない大名・高遠藩主内藤氏の墓(宝篋印塔)がある(菩提寺だった)。
新宿は今では都庁があり、乗降客数1位の都内の大都会であるが、その元の内藤新宿は、この内藤氏にちなんでいる。
閻魔堂の向い側にある不動堂では、入口から三日月不動と布袋を拝めるが、
この寺は浄土宗なので、本来不動様とは無縁なはず。
説明によると、甲州街道をずっと進んだ高尾山薬王院(真言宗)に奉納するはずの不動像が、この地でテコでも動かなくなったので、ここに祀ることになったという。
境内には、数匹のネコが主のように悠然と歩いている。
そしてそれなりに有名な寺のためか、参拝者も途絶えることはない。
現代建築の本堂には上がれないので、ここを後にし、さらに北に向う。
太宗寺の寺域だったという区立新宿公園を越えると、雰囲気が一転して、小さな店が続く飲み屋街となる。
名にし負う”新宿二丁目”だ。
ただ日曜の昼なので、夜の雰囲気を想像することはできない。
広い靖国通りに出て右折すると、浄土宗の寺が並んでいる。
手前の成覚寺には、石造りの大きな「子供合埋碑」(万延元年)というのがあった。
説明によると、”子供”というのは宿場の飯盛女のことで、実質人身売買の対象で、奉公中に死ぬと投げ込むように共同墓地に葬られたという。
内藤新宿の繁栄の陰にある残酷な事実に接し、一気に心が重くなった。
こうして一緒くたながら合埋碑として供養されただけでもせめてもの救いか。
また、恋川春町(江戸時代の戯作者)の墓の隣に旭地蔵という地蔵が彫られた石塔があり、男女連名の墓碑が並んでいる。
たとえば文化七年の同じ日付の念浄信士と離念信女。
それらは、心中した宿場の遊女とその相手の男たちだという。
先の飯盛女たちよりは少しは人間的な心を抱いて死んでいったといえるのか。
ただ、遊女たちの心と体の自由は、死によってしか得られなかった。
隣の正受院に入ってすぐのお堂に、ここにも元禄年間から奪衣婆が祀られている(写真)。
ここの奪衣婆は、綿の頭巾をかぶっていて、太宗寺の奪衣婆のような不気味さがない。
説明によると、咳止めや子どもの虫封じに霊験があるといわれ、江戸中から参詣人が集まったという。
境内の奥に進むと、江戸時代の梵鐘があり、戦時中に供出させられたが、アメリカで発見されて戻ってきたという数奇な運命のもの。
また江戸時代の無縁仏を集めた石仏群があり、聖観音(左手に蓮華を持ち、右手を下げる)や如意輪観音像はみな女性(信女)の墓石だ。
このように、同じ江戸時代でも、遺された家族からきちんと個人の墓を建てられた女性たちもいた。
生前の運命はどうであれ、死はこうして等しく皆にやってくる。
浄土宗の寺だけに、かように死について考えさせられた。
内藤新宿の昔から、人間の業をそのまま呑み込んできた街、新宿。
その街にふさわしい寺だった。