今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

女人禁制の理屈と心理

2018年04月05日 | 時事

私の意見が世間のそれとほぼ同じ場合、あえて開陳する情報的価値はないのだが、
相撲の土俵に女性が救命措置のためにかけ上がった出来事に”あわてふためいた”相撲協会側の対応について、
「女性への不浄観」という区別ではない差別思想を”伝統”の名のもとに堂々と温存(思考停止)しつづける愚かさに、今更ながらあきれかえるばかりである。

そもそも、鎌倉時代を代表する知性の持ち主である道元(日本曹洞宗の祖。私にとっては”作法の祖”でありハイデガー的存在論の先駆者)が、主著『正法眼蔵』において、
旧仏教が堅持している(今でも!)女人禁制を鋭く批判しているのだ。

女人禁制などバカらしいという時代を超えた意見は鎌倉時代からあった(こちらも立派な伝統)ことを強調しておきたい。

まぁあえて視点を変えて、男同士のガチンコ勝負の場に女を入れたくないという、
差別ではなく区別に基づく発想なら心情的に理解できなくはない。
ただ、プロ野球(ここもある意味女人禁制)の開幕戦の始球式は、
今では、アイドル女性が太腿もあらわに(神聖な?)マウンドに立って(神聖な?)白球を投げるし、
侍の武術に由来する弓道や剣道、柔道はとっくの昔に女性がプレイヤーとして参加している。

やはり、相撲は裸である所にポイントがありそうだ。
ついでに、女人禁制を堅持している歌舞伎役者の世界も、ご存知のとおりその起源は女性であった。
それが若衆歌舞伎を経て野郎歌舞伎に落ち着いたのは、エロスの問題が根底にあったからだ
(歌舞伎役者の女人禁制は差別でなく区別といえる。その逆の宝塚もしかり)。
裸といえば、各地の祭りで褌一張の男たちが或る神聖な一物を求めてぎゅうぎゅうに凝集するのも、エロスのにおいがする。
肌を寄せ合う男・男の間のエロスと女(観客)→男(演者)のエロスだ。 

つまり性差別思想ではなく、固有のエロス状況の維持として、
その場にいてほしくない存在があるというのは心情的にわからないでもない。
以前に女性が土俵に上がれない問題が議論になった時は、
女性の中にも現状維持派がいたが、それはこの心情によるのだろう。

でもそのエロス性を表だった第一義にもっていけないのなら、
そして件の女性が上がった土俵では大量の塩がまかれて”浄化”されたというように、
名目的にも不浄観で押し通されているのであれば、
その理屈は社会正義の上で正当化できるものではない。
21世紀のわれわれ日本人が、13世紀の道元にやっと追いつける時が来たようだ。

以下追加:
江戸時代を通じて、女性が祭礼(神事)からも排除されていったが、
近年はその祭礼を維持するのに女性の力を借りる必要に迫られ、女性の参加が復活している。
日本は、女性が活躍する社会の実現を目ざしているのではなかったか。