今日は勤務先の入試のため、休日出勤。
入試業務のあい間に、授業で課題に出した夢分析のレポートを読む。
自分の見た夢を、感想でも占いでもなく、心理学的に分析させたもので、理論的には自分の「無意識」を探るためである。
もっとも、夢が本当に無意識の内容を(歪曲された形で)表現しているかは知らない。
ただ、客観的な解釈基準のない不確かなものを積極的に解釈しようとすることで、本人の無自覚な心が表現(投影)される可能性は、ロールシャハテストの論理でありうる。
すなわち、夢それ自体だけでなく、その夢を解釈することが自分の心の表現になるのだ。
そしてそれを学生自身がレポートという形で論理化することで、自分の当時の心を再解釈できる(分析といっても、客観的な正解がある訳ではなく、1つの解釈にすぎない)。
それはおおげさにいえば自己発見であり、それなりに感動することがある。
もっとも、すべての夢がそのような暗示的内容ではない。
分子生物学者のクリック(遺伝子構造の発見者の一人)は、夢は忘れるために見るものという「逆学習説」を主張し、深い意味を探るのはナンセンスと唱えたが、その類いの分析に値しない夢はすでにフロイトが「昼の名残」の夢として分類している。
単なる昼の記憶ではない、強い情動を伴い忘れることのできない夢は、忘れるための逆学習説では説明できない。
そのような夢こそ、分析されるのを待っている。
ただし、私は個人的好みでフロイト的解釈よりユング的解釈を奨めている。
夢は抑圧された許されない願望というより、自分の状態についての無意識からのメッセージであるという態度だ。
学生は自分の夢を分析するために、自分のあからさまな心を見いだそうとする。
そういう内容なので、けっこう読んでいてシビアだ。