無意識日記
宇多田光 word:i_
 



熱いものやできたてのものがあんまり好きじゃなくて、端っこの方にくっついてるのとか切れ端とか冷めたものとか、そういうのが好き、というの半分わかる。私も、炊飯器のスイッチを入れながら「30分経ったら冷やご飯炊けてねーかな」とよく思うもの。暑い夏場にそう思うなら兎も角、真冬もそう思う事があるのだから何というかその気分そのものはよくわかる。なお、夏場の方が食べたくなるものは寿司飯なのだがそれは本文と関係ないな。

半分わかる、と書いたのは私はできたてのアツアツも大好きだからだ。どっちが好きかというのはもうその日の天気や気分といった他の要素に左右される程度の事で、どちらのよさもその時々で堪能する。(自分の代からの)家訓を「あるもん食っとけ」にしたのはそういう哲学の反映だ。それのよさを味わえ、と。

似た哲学に長嶋茂雄の「来た球を打つんだ」というのがある。これは本当に含蓄が深い。如何にこれが難しいか。上原がストレートを投げた時はストレートを打つ。スプリットを投げた時はスプリットを打つ。ストレートを投げた時はスプリットを投げていないし、スプリットを投げた時にはストレートを投げてはいない。しかし、打者は、上原がストレートを投げた時にスプリットを打ちにいって打ち取られる。上原がスプリットを投げたときにストレートを打ちにいって空振りをする。来た球を打とうとしないからだ。最早この言葉はバッティングの理想ともいえる。

この基本を全く分かっていない実況アナウンサーの何と多い事か。これ以上は愚痴になるからやめるが、バレーやテニスや卓球やバドミントンなどラリーのある球技では打法選択は相手の送球々種によって制限される。2歳児でも理解できる事をわからずに全国に向けて喋って給料貰うなんて恥を知れと言いたい。また話が逸れた。


つまり、"期待"というのは厄介なものだ。私たちもヒカルが新しいアルバムを作っているという事で期待に胸を膨らませているが、果たして、新曲が現れた時に「来た球を打て」るだろうか。宇多田ヒカルはこうあるべきだ、みたいな枷に囚われてはいないだろうか。これは、本当に、バッターボックスに立ってみないと、新曲を聴いてみないと事前にはわからない。

今「いや、自分はフラットな気持ちで聴ける自信がある」と言い切れる人は、そもそもそんなに期待していないか、勘違いしているかのどちらかではないか。私も出来るだけ偏見の無い耳と心を用意しておきたいと願っているが、正直無理なんじゃないかと感じている。期待が大きければ大きいほど、耳をニュートラルにするには意志と努力が必要となる。

しかし、期待が無くては、そもそも聴いてみようと思わない。そこが話の肝である。最初に耳を傾けようという意志を喚起するのはこれまでの実績であり、その実績を評価する事で期待を胸に抱ける人は必ずその実績の質に基づいたバイアスを持つ。これは必然である。

だから、ヒカルが新曲を出す度いちばん参考になるのは、「たまたまラジオで流れてきたのを聴いた」とか「ストリーミングでオススメされて」とか、全くヒカルに事前に期待していない人の感想なんだと思われる。出来れば、これは今まで難しかったが、ヒカルの知名度を全く知らない、ヒカルの事を知らない人がたまたま耳にした時の感想を知りたいだろう。そして、それで気に入ってくれたなら、…ガッツポーズだろうな。こんなところに名前を残しているガッツ石松は偉大だなぁ。

もしかしたら、これが最後のチャンスかもしれない。今後、5年以上のブランクでアルバムをリリースする事があるかな。わからん。しかし、若い人の中には、「宇多田ヒカル? なんか名前は聞いた事あるけど凄い人なの?」みたいな人も、今なら居るかもしれない。そういう人たちの感想を手に入れる、最後のチャンスかもしれないのだ。いや、また大ヒット曲をリリースしちゃったりするんじゃないかという事なんですが。如何でしょう。

いずれにせよ、ブランクをいい方に捉える見方は幾らでもある。ネガティヴな面も無いではないだろうが、それは言っても仕方がない。今あるがままの、美味しいところを味わおう。出されていない料理は食べられないし、来てない球は打てないのだから。

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昨日は長崎原爆投下の日だったのだが、やっぱり広島に次いで二番目に落とされた事と昼前の投下時刻とで随分と損をしている気がする。だからってこの日の認知度が著しく低下しているのを問題視しない訳にはいかない。パーセンテージを見ると、原爆投下云々よりそもそも歴史に対する興味関心が薄れているのが問題な感じすらする。調査方法にもよるかもしれないけど。

この、"二番目"の問題について、インタビューでこんな事を言う人が居た。「長崎が原爆投下された最後の地になるように祈ります。」と。そうか、二番目というからインパクトが薄いのであって、広島が最初なら長崎を最後にすればいいのか。

これは、未来志向の捉え方である。広島が人類最初の被爆都市であるという事実は金輪際変えられない。しかし、長崎を最後の被爆都市に出来るかどうかはこれからの我々にかかっている。ならば、長崎はもう一歩踏み込んで、言い切ってしまえばどうか。長崎は人類最後の被爆都市である、と。伝わり難ければ、一歩譲って今後も長崎が最後の被爆都市であり続けるよう願います、と。インタビューの感じからは、どうやらそのつもりで動いている人が一定以上居るようだから、今後もそのコンセプトが広がっていくかもしれない。

変えられない過去を反省する気持ちと、変えてはならない未来を守る気持ち。その両方の象徴が広島と長崎になるのなら、随分と強力な発信になるのではないか。そんな事を考えながら、私はというと暑いからって昼寝した。情けないというか何というか、平和ありがとう。


一方、8月9日といえば我々にとっては【久しぶりの大事なお知らせ】の日だ。即ち、人間活動宣言から5年が経った訳である。実際にアーティスト活動がとまったのはその年明けからだから正確にはまだ何も5年経っていないのだが、感慨深いといえば感慨深い。間に結構色々とリリースがあったから何もなしで過ごしてきた訳でもなく、いわばつかず離れずくらいの感触ではあるし、母の死と結婚とハローダヌパがあったのでそれはどっちにしても休みをとる事になってただろうから正直「5年も待ってるんだけど」という感覚は1mmもない。「次はいつどうなるんだろう」というのは、例えばUtada United 2006とぼくはくまの間にもあった訳で、この間約2ヶ月である。今の日々の感覚はその時とさして変わらない。待ち遠しいのは1日だって待ち遠しいのだ。

なので。まぁ5年経ったからといって「長かったなぁ」とはならんのだが(いや、ちょっとはなってるかな)、その時間をHikaruがどう過ごしてきたんだろう、というのは、知らない事が沢山あって、ちょっと興味が出る。日記でも書いてくれてねーかな。書籍化して売ったらアルバムより売れたりしてね。

今週はお盆か。いつにも増してゆったり参りましょう。

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