無意識日記
宇多田光 word:i_
 

いい  


気がついたらTwitterというツールに飽きていた。

なんて言うと誤解を生むんだろうかな。ツールとしてのTwitterに新鮮味がなくなった、といえばいいか。ある意味、それは飽きるのがめちゃめちゃ遅いともいえる。

裏を返せば、「あるのが当たり前」になってしまった。怖いっちゃ怖い。各BlogやNews記事、音源も動画も生放送も何もかも総て全てTwitter経由でアクセスしている。私にとってTweenは今や"ブラウザより先に立ち上げるもの"である。もうどうせならYoutubeもNicovideoもTween内で再生してくれたら有り難いのに。Twitter公式はもうそうなってるんだから。いや何の話だ。

光にとってはどうなんだろう、というのが今回の話。出題の為にメッセを読み返す度懐かしい感慨と気分に浸り駆られる。あのノリは残念ながらTwitterでは出ない。期間限定という話はどこに行ったんだろう。

Twilogのお陰でTweetも振り返れはするが、あのメッセの"作品性"はない。それを予めわかっていたからこそ光は最初Twitterは「絶対やらない」と言っていたのだ。で、私はやるべきだし、そのうちやるだろうと思っていたし、そうなって本当によかったな、と思う。特に人間活動との組み合わせは秀逸だった。言う事無し、だ。

単純に、だから居ない時の寂しさが、メッセを待っていた時と違うなぁと感じる訳だ。昔に較べてオプションが増えた。よい事だ。それをどう活かすか。これが難しい。

Twitterというのは大量の無駄な発言が流れてくるからこそ、よい。それが言葉の本来である。その中から、これは、というものが光を放つ。掃き溜めに鶴。素晴らしい。

光の創作活動はこれと全く逆。出す曲全てが素晴らしい。控えめに言っても、必ずある一定の水準を超えてくる。つまり、そのレベルの曲が出来なければ発表自体しないのだ。内気、という言葉はこういった性向にこそ相応しい。

しかし、数打ちゃ当たるもまた真実である。真のメクラメッポウは本当に何も当たらないが、常に真ん中を狙って打ち続ける事ができたなら「たまに真ん中に当たる」事も可能だ。

光も、創作過程ではそうだろう。種々「試してみる」事はしているだろう。だがそれを我々と共有する事はしない。その態度は「真のプロフェッショナル」として手放しで讃えられるべきものであって、文句を言う筋合いは一切ないのだが、だからこそ「みずくさい」とも思ってしまう。

ただ、そういう孤独と向き合うからいい、というのもある。これは、Twitter的世界観とは対局に位置するものだ。今はとにかくハッシュタグや関連ワードを取り混ぜて放り込めば坩堝が返事して料理までしてくれる。「そうではない」生活があるんだと言いたければ、孤独の塊たる「いきなり完成品」を提示してみれる事が肝要だ。そしてそれこそが宇多田ヒカルらしい、と言えるかもしれない。


今後もTwitterは利用させて貰うが、インフラとまで呼べるものになったからこそ、そのオルタナティヴも携えていたくなる。両方、である。欲張りである。要は、最終的にいい曲が、いい作品が、いい歌が出来ればそれでいい、それがしてあげたい「いい世界」なのだから、方法論が目的になったり、それに縛られたりしていてはいけませんよ、というみんなの自戒の話なのであった。これでいい?

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配信の値段設定がもし自由に出来たら、ヒカルは一体幾らにするだろう?

どうにも、DRMフリーの流れはよいのだが、それで一気に値上げされた(と言っても150円→200円→250円という流れだが)のがどう影響したのか、ちと気にかかる。

恐らく、短期的にみればこの値上げは正しい。配信で単品購入してきた層は、たとえそれが少々値上げされたとしても相変わらず購入するだろう。もう少しいえば、それによって減る頭数の分を値上げによって十分にカバーできただろう。

しかし、それは、本来の配信の"理想"とは違う場所での話だ。つまり、まるでテレビのリモコンを使う位の何気なさで曲を買ってもらう事だ。これがなぜ210円で売っていた着うたで達成されてフル配信で達成されないのか。

その問いに対する答を持ち合わせている訳ではないが、もし仮に各ミュージシャンが自由に値段設定ができればどういう事になるだろう、とついつい思ってしまう。コアなファンを当て込んで値段を上げていくか、たくさんのライト層に手を伸ばしてもらって薄利多売でいくか。様々な実験が為され、その中から成功例が出てくるのではないか。

しかし、それをするには音楽産業の根幹を変えなければならない。元々、どのレコードも同じ値段で売るという習慣は、一体何を反映した話なのかが難しい。確かに、物理的な手間は同じだからそこの部分は固定された費用となるだろうが、こと音楽の制作費となると別だろう。そこのところを、かけた制作費に比例して売上があがるのなら理屈は通るのだが。再販制度に支えられた書籍の例も参考になるかもね。

で、ヒカルの場合大量のライト層に支えられてここまで来ている。本人がコアな層を囲い込もうとしないからだが、それを考えると配信価格は下げた方が面白いんじゃないかと思うのだが、今のところ現実にはそうなっていない。確かに、物凄く単純に計算すれば、250円のものを150円で売るなら、250円で30万枚売れるものなら150円だと50万枚売らなければならない。そこまでの伸びが見込めたかというと実に怪しい。

やはり問題はそこではなく、前回も述べたように、値段が下がる事で「消費者の意識を変える」ところまでいかなければ、配信市場の真髄は発揮されない。そして、それは宇多田ヒカルの力をもってしても難しい。もう暫くは様子をみた方がよさそうだ。

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