わたしのいう「しとふしのあうはて」としての「うた」と今世に溢れる歌はまだまだ全く別のものだ。ならば、何故我々は嘘をつけるのだろう。何故我々は"居れる"のだろう。
一炊の夢の如き人生。嫌がり世の総てがそうして儚い。その果てしなさに較べれば、あの偉大な『真夏の通り雨』ですら真夏の夜の夢の様に儚く忘れ去られる。シェイクスピアを驚かせるのは並大抵の事ではないのだ。
ふと気がついたのだが、抽象化が是とされ過ぎて、人は歌を忘れ始めているのかもしれない。完全なる具象が世に存在しないのと同じように完全なる抽象もまた存在し得ない。在り得るのはまさに真ん中の「うた」だけである。今の世は、割いて離してそれっきりである。どこかでまた合わさなければならないのに。
「本」は具象である。歌のような避け難さから遠ざかり自由を謳歌する。そう、御覧の通りそこでも"歌を謳う"のだ。我々の生きる『道』がそこにある。『あなた』に『You are every song』と歌う以上、『あなた』は存在そのものでなければならない。あの歌がそこまで行っている"予感"は果たして在り得るか? 待つと約束した以上待とう。
下から見上げればヒカルの歌はもう既に果てしない。しかし夢の果て、しとふしのあう"在処"はそこから途轍もなく遠い。ならば肩の力を抜いて歌おう。そちらを見よう、目指そうという訳だ。誰しも、ただ歌うだけである。吉良さんが「観客全員が歌ったら」と夢見ていた。マーラーは千人の交響曲(第8番の通称)を書いた。音楽家は夢をみる。でもまだ遠い。余りにも遠いのだ。
しかし、"在処"から眺めてみたらと想像する事は出来るかもしれない。"おぞましい"の一言だろう。
メモだけしておこう。漫画「ONE PIECE」にポーネグリフというアイテムが出てくる。簡単にいえば石に言葉を彫ったもの、なのだが本とはどう違うのか。抽象化の拒絶だと尾田栄一郎が気づいていればこれは本当に鮮烈なアイデアたり得る。それははじまりたる「本」以上のものでより「うた」に近い。
また"在処"から眺める。まだまだ遠い。遠い。遠い。しかしその幅こそ世界だ。はなされたよになかができるから世の中なのだ。あの世もこの世も、在処からみれば大して変わらない。同じ程に遠い。
遠くても目指す事はできる。しかしそれは遠くを眺める事ではなく今を今にする事だ。本当と嘘が重なり、合う。本当は嘘を追い払い、嘘は本当を包み隠す。どちらが優しい? 歌にはどちらもあるのだ。考えてみるに値する。
いい歌にはヒントがある。ちらりちらりと見え隠れする。その刹那がよさであり、その切なさがよさである。
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時々こういう話を書きたくなる。ヒカルにいちばん読ませたいのはこういう話だからだ。あなたは頂点なんか極めていない。あなたに出来る事はまだまだ沢山ある。感じた限界はただの甘い御褒美だ。死を掠めても不死が霞みを読んでくる。詞と節を合わせる仕事は今日もある。死後とも詞言も合う日が在る。果てしな過ぎて目眩がするなら深呼吸。世界との対話、よとのはなしは尽きない。月の無い夜は尽きの無い世を呼んでくる。名前は大事だ。『あなた』は名前の前に在るのか? それも知りたい。生きておこうと思えてくるのだ。知らずに死ねるか。
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