無意識日記
宇多田光 word:i_
 



とは言いつつ、本来「バラバラのペルソナ」の大家・本家・元祖といえば宇多田ヒカル大先生その人である。シリアスな歌唱とふざけたキャラクター。当時はそんな言葉はなかったがその「ギャップ萌え」で多くの人の心を掴んだのだ。

落差が激しいから魅力的、とはよく言うが、ヒカルの場合それぞれのペルソナが魅力的であり且つそれが同一人物(という言い方もおかしいが)だという驚愕がスパイスとなった、という順番だ。ただの落差とは違うのである。ダメな所と素晴らしい所があってその落差がいいんだ、というのではなく全く違った魅力を幾つも持っていたからヒカルは人々を魅了した。

今更そんな事を言う人も少ない。ヒカルがどんな人なのか知られているし、どんな歌を歌うのかも知られている。勿論新しい世代は少しずつ"発見"していってくれるだろうが、彼らに向けた大ヒット曲でも現れない限り"現象"にまではならないだろう。

第一、今のヒカルは昔のハイテンションではない。相変わらずセンス・オブ・ユーモアは冴え渡っているが、変な話、唸らされるような感じなのだ。まぁ歳相応って事かしらん。面白い事言う人だな、とは思われてもギャップがどうのという風には捉えられないだろう。

その違いを端的に表したのが『20代はイケイケ!』と『30代はほどほど。』という2つのキャッチフレーズだ。ハイテンションだったあの頃(いや10代の頃にはかなわんけどね)を『イケイケ!』と表現し(もっともこのフレーズを決めた時点では19歳だった訳だが)、落ち着いた30代を『ほどほど』と言った。よく出来ている。

ただ、私の解釈は、少し角度が違っている。『イケイケ』には、「己の限界を試したい」という思いから『行けるとこまで行けるとこまで』突き詰めてみようというスピリットを感じた。ベストを尽くさねばならないが、自分のベストがどこらへんかわからない。だから倒れるまでやってみよう、と何度も倒れたのが20代である。

一方、『ほどほど』というのは、物事を弁えた状態である。加減や程度を制御できる。闇雲に走らない。より知的で繊細な感性が要求される。微調整につぐ微調整だからだ。だから今のヒカルは、自らの音楽を美術品を作るように丁寧に仕上げているのではないか。実際、過去の歌唱が雑に感じられる程に唱法の精度は上がっているのだ。昔に較べれば周囲からみたら余裕があるというか無茶をしなくなったように見えているかもしれないが、多分負荷自体は今までより大きい。慣れて制御が出来るようになっただけである。

なので、昔は走り過ぎて倒れていたが、今は、ふと微調整を失敗したら倒れるだろう。いわば、暴れ馬を腕力ではなく技術で宥め乗りこなしているような。少しでも間違えると振り落とされるような微妙な腕遣いで前に進んでいるのだ。その微妙さに辿り着く事を『ほどほど』と表現しているのなら、いやもうぴったりの形容でございます。

そんなだから30代になってもヒカルは倒れている。月1のラジオも飛ばしてた。どんな拘り方の作り込みをしているかは知らないが、随分と頼もしくなっても相変わらず綱渡りなのだ。そこを理解しておこう。

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