「名曲だっ!」と膝を打って絶賛する事が出来たらどんなに楽か。どうにも、凄すぎて評価を着地させる事が出来ない。歌と向き合う度に心から言葉がベリベリと剥がされてどこかに行ってしまう。この歌は言葉で出来ているのに言葉を拒絶するのだ。もう、手に負えない。
『真夏の通り雨』に対して『花束を君に』が助けになればいいのだが、聴けば聴く程この2曲は表裏一体で、分かち難く背を合わせている。助けを乞おうにも、すぐに力を合わせて強くなってしまう。するりとすり抜ける。
ひとつひとつの言葉を拾っていきたい。同じ旋律を各場所でどのように歌い分けているか解説したい。でも、それをしてもますます遠ざかる気がする。黙って聴けという事だろうか。ならばハッシュタグなんか使わない。サイトに歌詞掲載したりしない。語れ、と言っている。今の私には騙る事しか出来ない。
考え過ぎ、と一蹴するのもいいだろう。形態はどうであれ、これはポピュラー・ミュージックなのだ。何も考えずに聴けるのがいちばんである。それに、歌だけで伝わらない事を伝えられてもそれは歌の力ではない。なんでもない、のだ。
しかし、歌について、ヒカルの意図が知りたいと思うなら、語るべきだ。しかし、言葉ではもう包めない。詞の化け物である。
『若葉』は初夏の事かな、真夏より前だという時系列の説明かな、はたまた新しく生まれた幼子の手をとって、この子の顔を母に見せたかったと涙ぐんでいるのかな、そうかそうかと書くのか。年下の男の子の事だと解釈したら、だとか、バリエーションだって出せる。そういう話じゃない。そういう話じゃない。
言葉の限界を見ている。詞と詩の世界において、この威を上回るには世界自身と繋がるしかない。
そういえばこの歌は世界と繋がっていない。ここにあるのは普遍や抽象ではないのだ。剥き出しの言葉がごろごろ石のように転がっていて、ひたすらにその存在を否定出来ないのである。
『桜流し』と聴き比べれば、如何にあの曲が室内楽的な、守られた美に根差していたかを痛感する。ごろごろと、言葉が転がっている。そしてそのまま触れろと。私の気が触れているというのに。
『月日巡る』とは、螺旋のように季節が一巡して、しかし我々は決して同じ場所に居るのではないと伝えている。若葉に、木々に。『開いたばかりの花が散るのを「今年も早いね」と残念そうに見ていたあなたはとてもきれいだった』。この歌詞は2012年以前に書かれたものだ。決して2013年の夏より後ではない。そうもなる、のだ。総ては繋がっている。なのに、言葉はごろごろ、ごろごろと転がっている。私はその重い重い石ころを抱えるように、自らの頭を抱えたままだ。
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普通の人、それを仕事にしてない人が忘れても
いい事とか、慣れちゃって麻痺してもいい事と
か、麻痺したほうが逆に健康的な事とかを、麻
痺せずに、こう、感じ続けなきゃいけない事が
仕事なんじゃないの?』
この言葉はヒカルの原点。
言動一致。
未だに、心に深く根を張って、頑なに守られて
いるこの事実に、ただただ感動。
と同時に、一人の人間としての、ヒカルの心の
中にも、信条として根付いているのではないの
かとも思う。
『花束を君に』『真夏の通り雨』
現にこの二曲が全てを物語っている。
もう、「運命」だとか「宿命」だとか、あらゆ
るボーダーを超えた場所に、ヒカルはようやく
たどり着いたのだと思う。
そして、生身の一人の女性として「女」である
ことも受け入れ、「母性」を発露させ、新しい
命を育む。
また一つの新たな家族の物語。
「悲しみ」は家族で分かち合うことができる。
もう、一人じゃない。
ヒカルの音楽が胸に響くのは…。
それはまさしく「心が綺麗」だから。
きれいごとや、屁理屈や、感情のこもらない言
葉なんていらない。
それこそ優れた審美眼で本質に迫る人のほうが
いい。
真っ直ぐな瞳で射ぬいて欲しい。
量産型の音楽ではなく、生身の「宇多田ヒカル」
の音楽が聴きたい。
ヒカルの音楽は「心のオアシス」
どこまでも透明で
きれいなきれいな水を、
たっぷりとたたえている。