そういえば年末年始にまた『花束の君に』の歌詞『淋しみ』についてのツイートを幾つか見掛けた事を思い出したので、ちょっぴりそれについて今一度書いておこう。
「淋しみ」という単語は、既述の通り動詞「淋しむ」の名詞形と考える事が出来る。この「淋しむ」という動詞が現代人には馴染みが薄い為、同時に「淋しみ」という名詞にも馴染みがないのである。
では、その「淋しみ」は、通常我々が使っている「淋しさ」と、何がどう違うのか。
普通、語尾が「い」で終わる形容詞はその「い」を「さ」に変える事で名詞にする事が出来る。
「楽しい」→「楽しさ」
「悲しい」→「悲しさ」
「嬉しい」→「嬉しさ」
「淋しい」→「淋しさ」
という具合に。しかし、これらの形容詞は、語尾の「い」を「む」に変える事で動詞化する事も出来るのだ。
「楽しい」→「楽しむ」
「悲しい」→「悲しむ」
「嬉しい」→「嬉しむ」
「淋しい」→「淋しむ」
このうち、「楽しむ」と「悲しむ」は我々も日常的に使用するが、「嬉しむ」と「淋しむ」は滅多に見掛けない。実は、現代語での形容詞の動詞化は、語尾を「む」にするより「がる」にする方がポピュラーなのだ。
「楽しい」→「楽しがる」
「悲しい」→「悲しがる」
「嬉しい」→「嬉しがる」
「淋しい」→「淋しがる」
という風に。この「がる」と「む」が、大体において同じ意味なのだとここでは理解しておく。
翻って。形容詞の名詞化というのは、かなり乱暴だが早い話が語尾に「事」をつける事だ。
「楽しい」→「楽しい事」→「楽しさ」
「悲しい」→「悲しい事」→「悲しさ」
「嬉しい」→「嬉しい事」→「嬉しさ」
「淋しい」→「淋しい事」→「淋しさ」
となる。これを、動詞化を挟んだ場合と対応させてみよう。
「楽しむ」→「楽しがる事」→「楽しみ」
「悲しむ」→「悲しがる事」→「悲しみ」
「嬉しむ」→「嬉しがる事」→「嬉しみ」
「淋しむ」→「淋しがる事」→「淋しみ」
となる。つまり、
「楽しみ」とは「楽しがる事」であり、
「悲しみ」とは「悲しがる事」であり、
「嬉しみ」とは「嬉しがる事」であり、
「淋しみ」とは「淋しがる事」である。
一方で、「淋しさ」とは「淋しい事」だ。即ち、「淋しさ」と「淋しみ」の違いは、「淋しい事」と「淋しがる事」の違いである。
ではその2つの差とは何なのか。動詞化を挟む事で話し手は、実際の体験を通して感情を語るようになる。例えば、「野球の楽しさ」について語るのは一般論でOKだ。話の説得力は別にして、話者が実際に野球に触れたり触れていたりする必要はない。しかし、「野球が楽しみ」と言えば、これは必者が実際に野球に触れる機会がある、観戦であれ参戦であれ現実に体験する事を意味している。つまり、一般論と実感論の違いである。
つまり、ヒカルが『花束を君に』において「淋しさ」よりも『淋しみ』を使った理由は、ヒカルが歌い手として「淋しい」という感情の一般論を語りたかったというよりは、実際に「淋しい」と感じた出来事や実感と結び付けて歌いたかったからに他ならない。一言でいえば、気持ちがよりリアルに伝わるだろうという意図での語の選択なのだった。
これで大体理解してうただけただろうか。しかし、これは大衆向けの解説。宇多田フリークならばここからもう一歩ヒカルの歌詞世界に踏み込んでみるべき…なので、その話の続きは又次回のお楽しみ。
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