そう簡単にその2を書いてたまるか、と力んではみるものの。
論点の整理が難しい。商業音楽に継承や献身の概念を求める事自体があやふやかもしれない。
ただ、あらゆるものを輸入、外的要因に頼っているこの感じ。音楽的なアイデンティティのなさ、更に、流行とは大抵他の業界の話だ。パンクにせよメタルにせよ、それぞれファッションとして服飾に影響を与えた時期がある。輸出である。日本にそんなジャンルがあったか? 光ゲンジがローラースケートを流行らせた。音楽関係ないじゃん。聖子ちゃんカット。いや別に。アムラー。はぁ。かわいいけれど。
パンクはアティテュードで、故に表現形態として音楽のみに留まる必要はない。パンクのかっこうをしてパンクを演奏すると、ハマる。それだけの事なのに、それが出来ない。
輸出入という概念を二重に用いている。普通に、他の国から何かが入ってくること。もうひとつ、他の業界、世界、社会から商業音楽に影響を与える事。どちらもまぁ同じ。そこから始まる感覚がない。常に外に買い付けにいく自転車操業。飽きられては捨てられていき、生活に根付かない。
そう、根。ない。出来た花だけもってきて。次の種を育てない。
だから、J-popで"系譜"を語るのはいつも無理がある。シンガーソングライターの系譜。井上陽水と松任谷由実と宇多田ヒカルには縦の繋がりは、ない。置いたバトンを拾った感じすらない。
なのに。ヒカルの音楽は素晴らしい。渋谷陽一は昔から言っている事だが、ヒカルには型がない、と。海外に行くにはそれでは苦しい、と。
確かに。だから光の曲作りは毎回苦しい。型があれば、そこから始められる。乗れば強い。然し、それはあクマでキッカケに過ぎず、曲はその都度新しく生まれるものだ。最初からそれがわかっている光は、苦しむ事を是とする。
根無し草が毎度花を咲かす奇跡。それが12年続いた感覚。どういうことだろう、と思う。継承も献身もない、身を委ねられる大きな流れもなく、今や向き合うべき時代性すら廃れている。音楽に何ができる? 何もできない。だから祈り、歌うんだと。
曲が出来てしまうという事実。ジャンルレスでどこまで行けるか。ヒカルが生まれるにあたって、時代性の必然も音楽的必然もなかった。ただぽんっと現れ、人々はいつも通りに熱狂しただけだった。まぁ、あんな規模のはそうそうないけれど。未だに各音楽番組の最高視聴率? そういうことだ。
考える。光が献身すべき何かはあるだろうか。ない。私はそう思う。あらゆる存在は、光に献身すべきであって、その逆ではない。一方、継承にはもっとシンプルな側面がある。自分の子ども。似ている事や繋がりがある事。ない事。他人である事は間違いない。しかし、やっぱり似ている。何かを継承していきたいと、光は考えるだろうか。
人の生き方、生まれ方、育て方の話である。音楽も、同じ。今生きている人と音楽、まずそれが基本である。でも、血族、民族、種族は滅ぶ。そこまで考えなくていいか。手一杯である。
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