前々回書いた「なんかヒカルさんがこういうこと忘れてるってのは何なんだろう?ってちょっと考えちゃう」とこの中身をつらつらと書いてみるわ。
あたしねぇ、忘却ってクリエイターにとって結構必須のスキルなんじゃないかと思ってて。ひとまず「星の商人」17号でのヒカルさんの受け答えを思い出してみよう。他の記事でも似たようなこと言ってるけれどもpdfですぐ読めて便利なので。
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── 宇多田さんの中で創作と暮らしは切り離されているものでしょうか。
宇多田:それはもう、同じです。見たり聞いたり味わったり感じたりする、その全部が一旦私の中にインプットされ、解体されて、レゴのピースとか分子みたいにバラバラになって、そこから創作という意識を持つ中で、そのバラバラになったピースがまた再構築されて、違う形になったりして出てくる感じです。
https://www.itochu.co.jp/ja/about/magazine/viewer.html?file=pdf/hoshinoshonin2024_no17_talk.pdf#zoom=page-fit
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私たちの持ってる記憶って、過去に自分で「見たり聞いたり味わったり感じたり」したことそのものじゃないっすか。記憶がある、憶えているというのは、その見たり聞いたり味わったり感じたりといった何かを当時のまま残していることで。それを可能な限り容易にいつでもどこでも取り出せる人のことを「記憶力がいい」って言ったりする。つまり、「見たり聞いたり味わったり感じたり」したことが、時間が経っても変わらずにそこに在るんですよ記憶力のいい人って。
ところがですね、ヒカルさん、↑の途中でこう言ってます。
『解体されて』
って。
そうなのよ、ヒカルさんが見たり聞いたり味わったり感じたりした何かって、バラバラにされちゃうんですよ。きっと跡形もなく。そうやって得られたピースを使って、創作物という「違う形」を生み出してるんです。だから創作者は記憶力のいい人ではないばかりか、人より多くのことを忘れ去っているのではないかなと。
で、ここからは私見なのですが。これってどうやら「記憶のコピペ」だと出来ないっぽいのよね。記憶ってデータなはずだから、写真を焼き増すように(という比喩もそのうち通じなくなっていくかな)幾らでもそのまま同じ形を幾つも増やせるように一旦は思える。そのうちのひとつを解体すればいいだけで、残りを保持しておけば記憶は保たれるじゃないかと。だけど、再構築の為のピースを得るには、なんかそれじゃダメみたいでさ。実際にそこに在る記憶自体を、自分の見たり聞いたり味わったり感じたりして得たインプットそのものを解体ないと、バラバラにしないとそのあとの展開が生まれないような。生々しい言い方をするなら「生物が次の世代の土壌になる為には一旦死骸にならないといけない」みたいなことが脳の中でも起こっているような気がしてならないのですわ。
なので、ヒカルさんは昔から、皆さんご存知のように学校の成績が大変よろしく、いつも3番以内だったのを維持する為に『First Love』アルバムのレコーディングを土日限定にされちゃうほどきっちり勉強・学習して結果を出していた(とこのたびSpotifyのクロニクルで三宅さんに暴露された)のだから記憶力もいいはずなのに、時々やたらと忘れっぽいなぁと感じられることが多々あるのだけど、あたしかなり本気で、創作の為に自分の中の幾つかの記憶を肥料にする為に亡骸にしちゃってるんじゃないですかね?と思えてならないんですわ。
つまり、憶えてるはずなんだけどすぐに思い出せない、みたいな在るモノの出し入れに支障が出てる忘れ方じゃなくて、記憶自体がもう喪われてるような、ね。そういう欠落と喪失を沢山作ることで、いつもいつも我々が感動させてもらってる歌の数々はこの世に生を受けてるんじゃないかなって。だとしたら、結構怖いよねぇ。歌を聴く態度も、ちょっとあらたまる? いや気軽に聴いたげてね。奏でられるのが、歌のいちばんの歓びなので。
だからこう考えるのよ、ヒカルさんが『忘却』で歌った
『言葉なんか忘れさせて』
っていうのは、肌の触れ合いを直接感じ合いたいっていうロマンティックな意味だけでなく、実際に言葉の記憶を忘却することで新しいものを生み出していきたいっていう希求の歌でもあるのかもしれないって。『忘却』では、ここから続いてこう歌ってるでしょ。
『明るい場所へ続く道が
明るいとは限らないんだ
出口はどこだ 入り口ばっか
深い森を走った』
他方、くだんの「星の商人」のインタビューではこう言ってる。
『いつも作詞していて面白いなと思うのは、そういうところなんですよ。出口はどこだかわからないというか、入口から入って出口まで辿り着いたと思ったら、出口が入口だったんだ、みたいなことになったりする。それこそ、今回のベスト盤のビジュアルのイメージがワームホールになっているんですけれど、これも私の創作のプロセスがワームホールみたいなんだという説明からアートワークが出来上がったんです。』
つまり、創作の入口と出口の繋がりが俄にはわからない状況をワームホールで喩えたのね。↑に書いてある歌詞でいえばワームホールは『深い森』にあたるのかな。出口がわからず彷徨う場所のこと。こういう歌詞が歌われてる曲のタイトルが『忘却』なんですよ。思い出を喪うこと。そこはきっちり受け止めないといけない。
こうなってくると、確立されて陳腐化してる歌詞の解釈を生まれ変わらせたくなってくるね、ワームホールを潜り抜けた後のように。
『Automatic』の
『唇から自然とこぼれ落ちるメロディー
でも言葉を失った瞬間が一番幸せ』。
これは普通に解釈すれば、「恋人と過ごす時間が楽しくて鼻歌も思わず出てくるけれど、もっといいのは目が合ったり抱きしめられたりして何も言えなくなっちゃうこと」みたいなところに落ち着くんだけど、これを今夜の流儀で解釈するなら、
「私は言葉をひとつ忘れるたびにメロディーを生み出してる。
だから、言葉を喪う瞬間を何よりも大切に思ってる。」
っていう、ヒカルさんの作詞作曲の内実を歌ったものに早変わりするですよ。いや、生まれ変わる、ですよ。勿論14,5歳のHikkiはそんなつもり微塵もなかったろうけど、それがどう流転するかは、ヒカル自身だってわからないさ。出口はどこだか、わからないんだからね。忘却は創作の土壌なんだよ、きっと。