ここ数年はメッセはおろかツイート数も減って(インスタが結構あって嬉しいけどね)、ヒカルさんの性格、優しくて思い遣りがあってユーモアのセンスが光る、そんな人間性を最近ファンになった人はあんまり知る機会ないかもねぇ、なんて常々言ってきてたんだけど、よく考えたら、いやよく考えてみるまでもなく、いちばん最近のアルバムのタイトルトラックという看板中の看板曲の歌詞がメチャメチャ優しくて思い遣りがあってユーモアも光ってて何より格好よかったわ。『BADモード』、あれが今の宇多田ヒカルよねぇぇぇ。なるほど、寧ろ、メッセとか読みに来ない人でも「宇多田ヒカルはどういう人か」って知られてるのね今は。
デビュー当時はそんなことなくってだな。1stアルバムの歌詞って「理屈っぽいラブソング」が基本路線でして。文学に強そうな少女が背伸びしたり等身大だったりの恋心を知性溢れる言い回しで歌う感じで。あのね、今だと冗談みたいな話なんだけど、『Message from Hikki』を読むまでああいう慈愛に満ちたというか、思いの強い子だなんてわかんなかったのよ当時は! これ私だけでなく、他にも沢山居た。「メッセ読んでファンになった」って人がわんさか居たのさ。そういう人の方が音楽性の変化とか気にならないからずっと長年ファンやっててくれたりするんだこれがまた。
それが今では、「歌が好き」=「宇多田ヒカルが好き」みたいなとこまで来てるもんねぇ。それだけ自分自身を歌で表現することが上手くなってるんだとは思うんだけど、私からみたらそれと共に楽曲のクォリティが上がり続けてるのがスゲーなと思うのよ。自分らしさを表現できればできるほど音楽がよりよくなるってあなたどんだけ「宇多田ヒカル自身」に取り組むべき価値があるというのか。音楽的に。
これは誰にでも起こることじゃない、というか寧ろ逆ですらある。商業的成功を手に入れる為に売れ線の音楽に勤しみ続けてやっと手に入れた制作費と時間と知名度を利用して作ったソロアルバムが独り善がり過ぎてファンの一部にしかウケない、とか昔からの定番エピソードだからね。自分らしさって、追究すればするほど感性がニッチに、局所的になっていって、通じる相手が減っていくものなのですよ。だから売れる為には周りにアンテナ張ってみんなが何を気に入るのかを探り続けないといけない。
宇多田ヒカルはその真逆で、自分自身を掘り下げれば掘り下げるほどより普遍的な表現を手に入れていく。例えば『Prisoner Of Love』の歌詞『見捨てない 絶対に』とかって、音楽とか歌とかの枠を超えて最早ヒカル自身の魂の叫びそのものって気がしてるんだけど、そういう内的に深い源流のところまで辿り着いたこの曲がとんでもなく支持を得て(2008年時点で290万ダウンロードとか情報出てたな)ヒカルの代表曲の一つにまでなってたりするのだもの。
そして最近作『BADモード』では、恐らく息子や友人に語ったほぼそのままの言葉を歌詞にしたタイトルトラックとか、宇多田ヒカルのある日をそのまま描いただけの『気分じゃないの(Not In The Mood)』とかが、より大きくて広くて深い普遍性を表現し始めてる感覚なのよね。『キレイな人(Find Love)』なんて日記というか独り言というか。そうやって、まだまだどんどん「宇多田ヒカルの素」「素の宇多田ヒカル」をみせてくことで音楽的にも成長していけるんだったら、なるほどもうメッセに長文投稿して自分がどんな人間なのかをアピールする必要はなくなってるのかもねぇ今更だけど、と思えてきてそれがなんだかやっぱりちょっと寂しい気持ちにさせられるのでした。それだけオールド・ファンは『Message from Hikki』への思い入れと思い出が深くて分厚いんですのよ、えぇ!
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