無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『Time』は既述の通り、ワンコーラスずつ、いやさワンフレーズずつ順番に聴いていく事で推理小説を読み解くように登場人物たちの関係性を理解していける歌詞構成となっているが、となると、改めて、「部分的公開によるプロモーションはどこまでオーガナイズされていたのか」が気に掛かる。

結果としてはよかった。タイアップ先のドラマにおいて聞き取りやすいパートも聞き取りにくいパートも第1話第2話第3話と順を追って少しずつ公開されていき、最終的には皆5月8日の配信当日にフルコーラスを聴いてノックアウトされるという流れが出来ていた。これがどこまで「狙い通り」だったのか、である。

ドラマでの導入は非常に考えられていた。原作を読んでいたこっちとしても気がついていなかった切り口で直接はドラマと関係の無い歌詞もうまくシンクロするように演出を構成していた。やはり、この手腕まで梶さんがコントロールしていたとは考えにくい。今回は幸せなマリアージュだったという事だろう。オーガナイズされていたように見えたのは幸運な偶然だった、と。

だが、いや、だからこそ、次回以降はもっと綿密に「事前に楽曲のどこまでをどこでどのようにして公開するか」に腐心してくれたらなと。やはり、リスナーの思い入れが違う。少しずつ謎を解きながらこれまた少しずつ歌詞の全容を知っていく過程はかなりの割合でエキサイティングだった筈だ。今はストリーミングで何回聴かせるかが鍵な時代。思い入れの深い楽曲は何度も聴く。深過ぎると特別な日限定になったりするけれどそれはかなり稀な例だろう。好きになったら何度も聴くのが基本軸だ。

となると、ストリーミングで“部分的公開”は出来ないかと考えたくなる。今回はYouTubeでショートバージョンが先行公開された。これが結局再生回数200万回を突破した。この1ヶ月満遍なく聴かれてきた成果だろう。つまり、人数は少ないが何度も聴かれたのではないかと推理する。

ここで算盤勘定を持ち出すと浪漫を損なうと誹られそうだが、だったらショートバージョンをストリーミングしてたらもっと儲かっていたのにな、ダウンロード販売してたらどうなっていたかな、と。

とはいえそちらがベターだったと言い切る気も起きない。毎度言ってる事だが、宇多田ヒカルというアーティストはレピュテーション(評判、だわな)の比重が極めて大きい特異な存在だ。『Fantome』のような名作を「通常盤仕様1形態」でしか販売しないなんて普通のアーティストなら自滅行為なんだが、ヒカルはこういう思い切った施策を講じてそのレピュテーションを高める事でシーンでの存在感を強めてきているのだ。「ショートバージョンで小銭稼ぎかよ」とか言われてレピュテーションを下げるのは得策ではない。ここらへんを見極めながら次作以降のプロモーションも構成して欲しい。

私個人の欲望に忠実になるのなら、フルコーラスで配信する前に、幾らでも、昔の着うたみたいに、好きなだけ切り貼りして売ってくれたら嬉しい。金額など最早眼中に無いのだから。ヒカルの新しい歌が出現する瞬間をリアルタイムで体験できる歓びはお金に替えられるものではないのだよ…

…なんていう見解がマイノリティであることも、重々承知している訳でね。強く言える事ではないのだよなぁ。何しろ「ヒカルの寝顔だけ撮影し続けた2時間くらいのDVDが欲しい」とか真顔で書くヤツなのでね私は…ホント、バランスをとるのってむつかしいねっ。



…って、ええっ!? もう48時間後にはインスタライブ第3回!? ほんと心身がもたないよこのペースは……神様助けて……っ!

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質問の要旨は「誰かと別れる時の痛みを乗り越えるには?」といった風だったか。それに対するヒカルの答が「もともと痛みが最初にあり、その誰かと居る時は彼が(日本語にもtheyにあたる代名詞誰か指定してくれ)“痛み止め/鎮痛剤”となっていただけだ」。これが皆に衝撃と共感を与えた。(この二つを同時に与えれる事は極めて稀なのだが我々はヒカルのお陰でかなり慣れて麻痺してしまっているかもしれない)

確かに、その発想は無かったわ。凄い。

ただ、“反対側”からは常に実感していた事だ。誰かと居る事の方がanomalyな人間にとって、その誰かと居る時間は「一人で居る時に感じていた感覚が麻痺している」時間だ。その誰かが増えれば増えるほど麻痺の程度は甚だしくなり、誰かの総体が全体とか社会と同義になった頃にはほぼ総ての感覚が喪われる。そこからの別離はあの懐かしき感覚を取り戻す事だ。呟く、「嗚呼、すっかり忘れていたな」と。

こちらの感覚は結構普遍的だろう─そうである事がnormalな人間にとっては、だが─が、誰かと居ることが当たり前になっている人間にとってはそうではない。喪失は苦痛であり、常にはなかったものだ。それら二つの異なる人種は、根本から相容れない。

ヒカルは、その全く相容れない二つの人種の橋渡しを"original pain"として定義付けた。これは画期的な事だ。まさに、ヒカルにしか出来なかった。私にとってその痛みは懐かしく忘れていた(かもしれない)感覚であり、貴方方にとってはまさに痛みそのものだろう。人との絆が心地好い麻痺として痛み止めを続けてくれていたのだ。原初に孤独を置く瞳と絆が人を作る作法の双方から等距離でなくばこの気づきは与えられない。普段どれだけの苦痛をよしとして受け容れているか想像もつかない。それこそが物語の意義であり、つまんない人生を打ち棄てる原動力でもある。全くこの人からは目が離せようがないぜ。

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