単曲で聴いても勿論素晴らしい『少年時代(2019)』だが、アルバムの中の5曲目として聴くのもまた格別だ。
その前の4曲目、椎名林檎による「ワインレッドの心」がまた素晴らしく、もし仮に『少年時代(2019)』が無ければ明らかにこれがアルバム随一のハイライト、顔曲になっていただろう。しかし、そこからヒカルが歌い出した時の空気の変わりようは凄まじい。歌い方が優しく慈しみに溢れているからそれを凄いとか凄まじいとかいう言葉で形容するのは感覚的にそぐわないのだが、アルバム全体で聴いた時の存在感を表現するにはそういったやや過剰な言い方をせざるを得ないのだ。別次元なのである。
恐らく、この状況をいちばん喜んでいるのは椎名林檎なのだろう。ヒカルちんが居なかったらここでも彼女は看板として担ぎ上げられていた。それも生業のうちだからと意気に感じて率先して担おうとするのが林檎嬢だが、そうしなくていいのならしないのもまた林檎嬢の筈なのだ。ヒカルのお陰で、しなくていい。そしてヒカル自身は、普段担っている自分自身という看板の方が遥かに重いので、このような企画作品で顔役を担うことになっても涼しい顔だ。自然にそうなる。ただそれだけのこと。総てが収まるべきところに収まっている、そう感じさせる為に何かをしたのではなく、ヒカルはただ歌っただけだ。それがまぁなんとも恐ろしい。そして果てしなく限りなく優しい。
15曲聴いて、他のアーティスト達は勿論、捧げられた井上陽水本人すら包み込むような感覚を覚えた。だが、例えば歌唱自体がアレサ・フランクリンみたいスケール感に溢れている訳ではない。少年の面影も十二分に感じられる、ヒカルらしい身近さは然程失われてはいない。なんとも不思議な、時間の流れの感覚の異なる世界から歌が流れてきたような、でもずぅっとそこにあったような、神話的な感覚と親和的な感覚が同じ所で重なり合っているような、ちょっと他にない体験となっている。ある意味、他の14曲の存在がその稀有さを際立たせている。
他の14曲もそれぞれに楽しませてうただいたが、ヒカルのそれは、そう、一種の「体験」なのだ。鑑賞というより世界。井上陽水も、まさか自分の歌にここまでの力があったのかと驚いているかもしれない。しかし、だからこそ彼もまた天才なのだった。幸甚の至り、と言っていいのかはわからないが、今回いちばん感動したのは彼、井上陽水だろうな。正真正銘の、彼に捧げられた秀逸なトリビュート・アルバムである。
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