無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『Play A Love Song』はどんな歌なのか、を一言二言で表そうとしたらどうなるだろう。

まず思いつくのが「励ます歌」だ。ヒカルに『大丈夫、大丈夫。』と歌われたら何だか元気が出てくる。『悲しい話はもうたくさん 飯食って笑って寝よう』なんかにも励まされる。「元気が出る歌」でもいいかな。

もうひとつは、「切ない歌」だろうか。宇多田ヒカルは切ない歌ばかりだが、この曲の場合、全体的にひとを励ます曲調であるのに中間部で『そばにおいでよ どこにも行かないでよ』と急にデレてくるのが特徴だ。更に『もう二度と離さないと言わんばかりに』とまで言われると、過去に一度離れてしまって悲しい思いをした経験でもあるのかなと勘ぐりたくなる。それを言う身からすれば切ない、言われて「そんな、離れるわけないじゃないか」と思える方からすると「超萌える歌」ともいえるかもしれない。「俺もヒカルにそんな風に思われたい!」と叫ぶファンの声が聞こえてきそうだ。主に女子だろうが。男子の方はなぜか大抵、そうなったら嬉しいだろうなと思いつつもそこまで自分に自信を持てないヤツが多い気がする。そこらへん女子は非常に積極的だ。何の分析だよ。

話を戻そう。そして進めよう。次に、二言三言で内容を表すとなると、どうなるか。

まずは歌詞の内容から、「笑って春を迎える歌」という感じだろうか。「笑顔の春歌」だ。"Smile & Spring."―って"SUNTORY Sparkling"とも語呂がいいな。CMや雑誌のイメージそのままに「切り替わる歌」「スイッチ・ソング」でもいいかもわからない。

スイッチ。冬から春、悲しい話から笑顔、『言わせてくれ』から『聞かせてくれ』。切り換えや切り返し。何かが新しく生まれる瞬間を捉えたような、そんなすがすがしい春の歌。それが『Play A Love Song』だろう。「春を謳歌する歌」なんかもいいかもしれない。

で。この歌最大の問題に突入する。何故タイトルが、サビの最後が『Play A Love Song』なのだろう? 歌詞の中で、なんやかんやあって最終的に辿り着く結論が『Can we play a love song ?』―「一緒にラブソングを奏でませんか?」なのだ。これは一体?

「春を迎えて心もウキウキしてきたから恋の歌でも歌おうよ」というのが、真っ当な、正統な解釈。それを踏まえると『Play A Love Song』は「楽しい歌」一択になるかもね。

"Can we 〜?"という誘い文句は、例えば"Shall we dance ?"〜「僕と踊りませんか?」という誘い方が"あんまり断られる事を想定していない、未来の大体確定事項を相手に告げる風"なのに対して、どちらかといえば、「あれ?これオレ達ちょっと恋の歌をくちずさんだりしちゃってもいいんじゃね?」的な、「お互い気持ちがそっちに向いてる気がしませんか?」なニュアンスが含まれているように思える。「あぁ、これは恋の歌を唄うチャンス到来!?」みたいな。これが"Could you〜?"とかだと…なんて言い始めると長くなるのでやめるけれども、なんか"Can we 〜?"が何らかの高揚感を運んできてくれてるのは間違いない気がする…

…っとと、話が入り組んできてるな。ここらで切り上げとくか。またこの「なぜこのタイトルとサビなのか?」問題についてはあらためてどこかで切り込んでおきたいね。いい歌だからな。

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ヒカルの発声と発音が『Fantome』以降大きく(という程でもないかもしれないが)変わったのは知られる所ではあるものの、それを直接「全体としての曲調の変化」と結び付けて語るのは難しい。ヒカルは、生まれた曲ごとに歌い方を使い分けるからだ。

『花束を君に』で歌声が優しく柔和になった、のは、ヒカルが変わったからではなく、『花束を君に』がそういう歌だったからだ。つまり、ある曲の曲調が先にあって歌唱法はそれに合わせて当てはめられるものであって、その逆ではない。いや、ではなかった。今までは。

それは恐らく、喉のトレーニングしてから初めてのプロダクションだったからだろう。アルバム一枚分を経て、漸くその逆の、「こういう声を出せるようになったから、こういう曲を書いてもいいようになった」といえる状況が出てきた。それが『Play A Love Song』だ。

ヒカルはこの曲で"新しい声"を存分に活かしている。少なくとも、デビュー当時の"90年代R&B風"と言われた歌い方からは随分遠い。柔らかく刺もササクレもない、それこそ天使のようなエンジェルボイスで高音が歌われている。清澄さと爽快感をもつ音像はこの発声なくしてはありえない。

とはいえ、勿論かつてからの発声も健在だ。『Play A Love Song』でいうなら、『そばにおいでよ』からの切ないメロディー使いの部分は昔ながらの発声に近い(全く同じという訳でもない)。その落差の演出は、「最初聴いた時宇多田ヒカルだってわからなかった」と言われる事多数だった『ぼくはくま』において、ただ一節だけ"従来通りの宇多田ヒカルの歌い方"を披露して見せ場を作った手法に通じるものがある。『ママ』、な。『僕の親がいつからああなのかは知らない』らしいけど。

そういう風にみてみると、『Play A Love Song』は従来通りの正調宇多田ヒカル路線であり、それと同時に新しい発声と発音を駆使した新機軸なのだともいえる。新旧どちらのファンも、昔を懐かしむ人も最近飽きていたという人も全員取り込める問答無用一撃必中の名曲なのですよ。

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