トシの読書日記

読書備忘録

係累が消滅するとき

2012-09-19 15:26:06 | あ行の作家
大江健三郎「われらの時代」読了



「万延元年のフットボール」を読もうと思っていたのですが、仕事場に持って出るのを忘れ、休み時間に読む本がないなんて恐ろしいことは考えられないので、仕事の合間を抜け出して近くの書店に走り、本書を見つけたのでした。


この長編は、かなり初期のものです。「芽むしり仔撃ち」のすぐあとくらいです。著者23歳のときの作品とのこと。


これもすごい小説でした。なにがすごいかというと、まず、表現がかなり過激です。村上龍の「限りなく透明に近いブルー」も色あせるのではと思わせるくらいです。例えばこんな文章。

<愛、それはわれわれにとって致命的に無縁だったのではないか?汚らしく恥辱的な性交!地獄だ。両方の口に子宮がしがみついている膣、出口なしの粘膜管、筋肉質のなかでうごめいているような性交、おれたちは昨夜までくりかえし性交をおこなって来た、おれの性器は勃起してそれを促した。しかし勃起とは何だろう、おれが頼子の性自体に、その性的なすべてに嫌悪と反撥しか感じないときも、おれの性器は隆々と勃起し、性交がおこなわれた。それは愛でないことはもとよりあきらかだが、欲望ですらもないのではないか?おれの存在とおれの性器の勃起とに本質的な相関があるのか?男もまた、それをすべての意思において拒みながらしかも強姦されうるのではないか?女だけが屈辱的な強姦の特権的な犠牲者ではありえない>


こうして主人公の大学生、南靖男は中年の娼婦、頼子のヒモとなって出口のない閉塞感と焦燥感の中で怠惰な毎日を送るわけです。自分の情人が客を取っているあいだ、靖男は時間つぶしに深夜喫茶へ行き、ヘンリー・ミラーを読み、考えます。


<ヘンリー・ミラー、このあまりに西欧的な男の胸をジンのように灼くアジアは日本をふくまない。それは蒙古、チベット、インド、支那だ。日本は心をふるわせるアジアではない。心をふるわせ胸をうつアジア人は日本の土地に生れてこない。日本の経済、日本の文化、それは心をふるわせ胸をうつ切実に緊張したエネルギーを所有していない。日本の青年は、経済や文化をつうじて胸をうつ希望を育てることができない。政治をつうじて?それはまるっきりの茶番だ>


そしてこの小説はもう一つ、靖男の弟が所属するバンド、<不幸な若者たち(アンラッキー・ヤングメン)>の三人の若者たちの話も並行して進んでいきます。靖男は弟の滋と一緒にビールを飲みながら思います。


<弟よ、果敢な行動力と快活な笑いをもちつづけるためになら、女と性交渉をもつな、戦場の兵士は英雄的に自涜する。自涜は男性的な至高の自己愛にたかめられる。精液は血に汚れた土のうえにこぼれる。女の湿っぽい性器を糊づけするためには消費されない。兵士たちは高笑いしながら死ぬ覚悟をもつわけだ。弟よ、女の湿っぽい薔薇色の毒におまえの性器をゆだねるな。

靖男は、戦争の時代に若く純潔で死んだ兵隊たちを愛していた。しかし現代は戦争における果敢で暴力的な野性の死が若者の精神と肉体を祝福しなくなった時代だ。死は飼いならされた家畜になってしまった。老人も、女子大生も、若者もおなじ死を、家畜となった死を死ぬる。>



靖男は、懸賞付きコンクールに応募した論文が1位に入選し、フランスへの留学が決まる。この出口のないどんづまりから脱出できるチャンスを得るのだが、ここでまたひと悶着あり、結局彼はフランス行きを断念せざるを得なくなる。しかし靖男は最低限の抵抗を見せます。それは娼婦の頼子と別れることです。この場面、すごい愁嘆場で胸がふさがれる思いでした。


1940年代に生まれてきた若者が、戦争にも行けず、しかし60年代の日本という時代にも満足できず、革命の幻影に酔っている集団を冷ややかに見つめ、かといって自分はどうすることもできない、いや、どうしようともしない情けない自分を嫌悪する。この行き場のない思いを赤裸々な性描写を交えて見事に描ききった、大江健三郎初期の傑作といえると思います。

作品の一番最後、靖男の独白が読む者の心をふるえさせます。


<おれたちは自殺が唯一の行為だと知っている。そしておれたちを自殺からとどめるものは何ひとつない。しかしおれたちは自殺のために跳びこむ勇気をふるいおこすことができない。そこでおれたちは生きてゆく、愛したり憎んだり性交したり政治活動をしたり同性愛にふけったり殺したり名誉をえたりする。そしてふと覚醒しては、自殺の機会が眼のまえにあり決断さえすれば充分なのだと気づく。しかしたいていは自殺する勇気をふるいおこせない。そこで偏在する自殺の機会に見張られながらおれたちは生きてゆくのだ。これがおれたちの時代だ>



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G・ガルシア・マルケス著 野谷文昭訳「予告された殺人の記録」