昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

昭和のマロの考察(117)文明(7)

2011-01-08 06:31:03 | 昭和のマロの考察
愈現実世界へ引きずり出された。
 汽車の見える所を現実世界と言う。
 
 汽車程20世紀の文明を代表するものはあるまい。 何百と云う人間を同じ箱に詰めて轟と通る。情け容赦はない。
 詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。
 人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。
 文明はあらゆる限りの方法によって此の個性を踏み付けようとする。
 


 一人前何坪かの地面を与えて、此地面のうちでは寝ることも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。
 同時に何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩もでてはならぬぞと威嚇かすのが、現今の文明である。
 何坪何合のうちで自由を壇にしたものが、此鉄柵外にも自由を壇したくなるのは自然の勢いである。
 憐れむべき文明の国民は日夜に此鉄柵に噛み付いて咆哮して居る。
 文明は個人に自由を与えて虎の如く猛からしめたる後、之を陥穽の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつゝある。
 
 此平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を睨めて、寝転んで居ると同様な平和である。


檻の鉄棒が一本でも抜けたら・・・世は滅茶ゝゝになる。
 第二の仏蘭西革命は此時に起こるであろう。個人の革命は今既に日夜におこりつゝある。北欧の偉人イプセンは此革命の起こるべき状態について具にその例証を吾人に与えた。


 「むしゃくしゃするので、誰でもいいから殺したかった」などという人間が最近ニュースを賑わしているが、こいつらも鉄檻に入れられてイライラしている虎のようなものか。
 

余は汽車の猛烈に、見界なく、凡ての人を貨物同様に心得て走る様を見る度に、客車のうちに閉じ籠められたる個人と、個人の個性に寸毫の注意をだに払わざる此鉄車と比較して、 ─ あぶない、あぶない、気を付けねばあぶないと思う。
 現代の文明は此あぶないで鼻を衝かれる位充満している。
 おさき真闇に妄動する汽車はあぶない標本の一つである。
(夏目漱石<草枕>から)


 ─続く─