昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

昭和のマロの考察(69)芸能とスポーツ(18)

2010-10-30 06:06:24 | 昭和のマロの考察
 貧困になり、家族関係を損ない、個人生活を損なうほど人を追い込むギャンブルになぜ我々は嵌るのか。

 都立大学社会学の高橋勇悦教授は次のように説明している。
 ギャンブルの達者ともいうべき人たちが、負けて負けて、なおかけつづけるのはなぜか。
 その心理の不思議を「フィクショナル(虚構的・物語的)な主体になってしまっているから」と説明する。
「ギャンブルなら意思決定の過程はすべてわがもの。情報を集め、推理して、決断するまで、すべてが自分の思いのまま。そんなこと、今、現実の社会の中でできますか」


 ぼくはやったことはないが、最近<ゲーム>に嵌っている人が多い。

 <フィクショナルな主体>になれる点ではギャンブルと同じなのだろう。
 大きな金をかけないかぎり、最後の一線を踏み外すほどのことにはならないだろうから、人間が悪癖に陥ることを防ぐ、一定のガス抜きになっているのかもしれない。

 麻雀もそうかもしれない。
 俳優の風間杜夫さんが言っている。

「のんきで楽天的なんです。人の言葉にあんまり敏感に感じたりしない。ストレスはたまらないですね。・・・<煮詰まらない>生き方には、マージャンが一役買っている。休日に、仲間を呼んで卓を囲む。・・・
 実力だけでは勝てない。がんばればいいってもんでもない。肩ひじ張ってもツキはこないし、ごう慢になるとふっとツキが逃げて。で、耐えているとまた戻ってくる。
 大げさだけど、人生に似てるって思うんです。


 

昭和のマロの考察(68)芸能とスポーツ(17)

2010-10-29 06:35:02 | 昭和のマロの考察
 勝負事も競馬、株取引となるとギャンブルの様相を帯びてくる。
 競馬はともかく、株にかなりのめり込んだ時期があった。
 インターネットで容易に取引ができるようになり、デイトレーダーのように毎日パソコンとにらみ合っていた。 

 日経平均株価が3万円台から1万円台へと急降下する時代だったから結果は推して知るべし。

 ギャンブルも行き着くところまで行くと大変なことになる。

 <ナニワ金融道>という漫画がある。

 その冒頭、主人公の灰原青年が街の金融会社の試験を受けにいくと、待合室は混み合っている。彼らも試験を受けにきたのかと思うと、そうではなくて高利の金を借りにきている人たちだ。それにしては気楽な様子をしている。
「あの連中は最後の一線を踏み越えてしまった連中ばかりだ、へ、へ、へ」とベテラン金融マンが教えてくれる。
「踏み越える?」と灰原青年が尋ねると、その金貸しはこう答える。
「そう、このくらいの困難は、はねかえせると今でも信じている連中だよ」
 (山口昭<債権者会議>から)


 ─続く─

昭和のマロの考察(67)芸能・スポーツ(16)

2010-10-28 06:13:49 | 昭和のマロの考察
 ・・・路上パーキングの時間が過ぎていて気が気じゃなかったんだ・・・ ぼくは心の中で言い訳していた。
 道路の向かい側にある信金の駐車場に入れなさいと大先輩のAさんから言われていたのだが、満車だったので路上パーキングにしたのだ。

 すでに2時間経過している。

「もう信金が空いているかもよ・・・」
「車を見てきますから」と言って階段を降りるぼくの背にAさんの声が追ってきた。
 信金の駐車場はあいかわらず満車だった。
「なかったのかい? 悪いね。駐車料は払うからね」
 4階の窓からAさんが顔を出して叫んでいる。

 席が替わってツキが来るかと思ったが、言い訳をするようになっては来るものも来ない。ぼくはいわゆる<ど壺>に嵌ってしまった。
 足掻けば足掻くほど深みに嵌る。反比例するようにAさんは点棒を上積みしていった。

「遠くから来てもらってるんだものね」
 Aさんは、下の食堂で夕食を食べる時もぼくを気遣って駐車料を払ってくれた。
 帰りには「60万部も売れて、すごい人気なんだ」と<東京タワー>を貸してくれた。
 袋の中にはお菓子まで入っていた。

 翌日、身近な人たちとのお付き合いの原点を活写する<東京タワー>を読みながら、頑固者だけど人生経験豊富な人情味のあふれる大先輩のことを思い出していた。

 お菓子のお礼についても電話しなければと思っていたら電話が鳴った。
 B先輩だった。大先輩からの伝言で今度の土曜日はどうかと言うのだ。
「昨日の件があったから、君に気を遣って直接しないでぼくに頼んできたんだ」と言う。
 むしろ失礼があったのは後輩のぼくの方だ。

 ぼくは早速<東京タワー>とお菓子のお礼についてAさんに電話した。

「そうかい、面白かったかい。そのお菓子美味しいだろう? 評判なんだ。奥さんにあげてよ。じゃあ土曜日頼むよ」と笑い声だった。

 ─続く─ 

昭和のマロの考察(66)芸能・スポーツ(15)

2010-10-27 05:30:34 | 昭和のマロの考察
 スポーツは<勝負事>という一面も持っている。
 ぼくは<勝負事>が好きで、ゴルフも勝負事として立ち向かうことがある。
 しかし、どちらかというと相手と闘うというより、自分との闘いと捉えている。
 自分の気の持ち方で勝負が左右される場合が多いからだ。

 その意味で麻雀とか囲碁などの<勝負事>は頭脳のみならず神経を駆使するスポーツだと思っている。

 その日、ぼくは誘われて自宅から1時間半かかる大先輩Aさんの事務所へ出かけた。
 御歳86歳の大学の大先輩である。麻雀が大好きで同窓会仲間の麻雀大会でも毎月定期的にご一緒している。その他にプライベートで週に1回か2回されていると言う。
 普通は雀荘だが、Aさんは東京の事務所に自動麻雀卓を持っていて、そこによく招待される。

 この日も勢い込んで乗り込んだが出鼻をくじかれ、2回目も冴えなかった。最後の親も誰かに積もられ、支払いの際、Aさんから貸した点棒を返せと言われ、借りていた百点を返した。ところがAさんは即座に「違うよ!千点だよ!」と言った。
 彼は負けていたから不機嫌な声で言った。
「いや、借りは百点ですよ」ぼくも負けているので不機嫌に反論した。

「冗談じゃない、千点貸したじゃないか!」大先輩は声を荒げた。
 別な勝っている先輩Bさんが「百点で間違いないよ」と助け舟を出してくれたががAさんの怒りは収まらない。
「そんな細かいことでごたごたしてもしょうがない。千点上げますよ」売り言葉に買い言葉で、大先輩に対するあるまじき言葉でぼくは千点渡した。
 ともかくゲームは再開されたが、Aさんはぼくの言葉に切れていた。

「じゃあ、やめようか、返すよ」と先点棒を放ってよこした。
 一瞬ぼくの心に・・・やめましょう・・・という返す言葉が浮かんだ。ここがぼくの未熟なところだ。もしそう言ってしまったら、Aさんと麻雀することはおろか、これまでの信頼関係が一気に崩れ去る。ぼくは踏みとどまった。
「当然の権利としていただいておきます」と千点棒を自分の引き出しに収めた。

「もう、これからいっさい点棒の貸し借りはやめましょう」もうひとりの同輩Cさんが発言し、「いつもこれでトラブルからね」とB先輩がフォローした。
 それでもまだ冷たい空気が漂っていた。
 しかし、Aさんがリーチをかけ、一発ツモで三色のカンチャンを、しかもドラを引いた。親のハネ満だ。途端にAさんの機嫌は直り、ぼくはドンビリに沈んだ。

 ─続く─

昭和のマロの考察(65)芸能とスポーツ(14)

2010-10-26 05:52:55 | 昭和のマロの考察
 ぼくのゴルフはやってますというのがおこがましいほどのヘボだが、それでもなんとか上達しようと、上級者のアドバイスを求めたり、専門書を読んだりする。
 パターの場合、スライスラインとかフックライン、芝目の向きや傾斜、いろいろ読みすぎて結局よくわからないまま、えい!ままよ!と打ってしまって失敗するのが落ちだ。

 そんな時、その道の達人の至言に出会うと、なるほど!と納得する。
 
 ウオルター・ヘーゲンはグリーンの魔術師と呼ばれ、パットが超人的にうまかった。

「この世の中に曲がるパットなどはない。まっすぐのところに一点を定め、そこへまっすぐ打つだけだ。練習するなら、まっすぐのパットを、まっすぐ打つようにするだけだ」 
 (金田武明・日本経済新聞より)


 ゴルフ界に君臨した?かのタイガーウッズも、例の<不倫騒動>以来、復帰した今期の成績は、優勝はおろか最下位に近いものもあったりして目を覆うばかりだ。あれほどマスコミから叩かれればやむを得ないかなとも思うが。・・・

 彼がゴルフ界に君臨したといわれるほどの実績を残した裏には精神面での支柱であった父親アールさんの力に負うところが多いと言われている。
 

 今一度、下記の父親の至言を読み返して立ち直ってほしいものだ。

 ベトナム戦争に参加した時、私は敵の動向を偵察するために迷彩服を着て二晩池に浸かっていたことがある。敵は目の前の林にいるのさ。
 下手に体を動かすと見つかってしまう。いつ殺されてもおかしくない。そういう時、<動いてはいけない>と思った途端に人間は耐えられなくなるんだ。<こうしなければ>と思ったらかえってその通りにはいかなくなる。
 ただ、自然と溶け合うようにするんだ。するとミステリアスな瞬間が訪れて、じっとしていることができるんだよ。
 (タイガーウッズの父アール・文芸春秋00年6月より) 


 ─続く─
 

昭和のマロの考察(64)芸能・スポーツ(13)

2010-10-25 04:55:03 | 昭和のマロの考察
 登山もスポーツだが、単なるスポーツではないと井上靖氏は<氷壁>の中で書いている。

 「じゃ、言うがね、君は登山を自分との闘いだと言った。山頂がそこに見えている。しかし、霧がかかっている。感情は進めという。理性は停まれという。君は感情を押さえつけ、理性に従うだろう」
「もちろん、そうです。だから自分との闘いだと言ったんです」
「残念だが、そこで僕と意見がわかれる。僕はどうしてもそこには賭けがなければならぬと思う。一か八か、よしやってみようというところがなければ、所詮登山の歴史は書けないだろう」・・・
「しかし、近代的な登山家というものは、もう少し冷静ですよ。最後まで僥倖には自分を賭けないでしょう。理性と正確な判断が勝利を収めて、初めて勝利には価値があるんです。一か八か、よし、やってみろ。それでたまたま成功しても、たいしたことはありませんよ」
「いや、勝利とか、成功というものは、常にそうしたものなのだ。八分までは理性の受け持ちだ。しかし、あとの二分は常に賭けだよ」
「そうでしょうか」
「そうだ。大体スポーツというものの根底にあるものは、知性とは無関係な精神だよ。ザトペックのことを人間機関車といったが、あれは確かに機関車だった。機関車だからあのレコードが生まれたんだ。
 登山家だってそうだ。・・・武器は強健な体と不屈の意志だ。それ以外のものはたいして重大ではない」
「登山は単なるスポーツではありませんよ」
「じゃ、なんだ」
「スポーツ、プラスアルファです」
「アルファとななんだ」
「アルファですか。フェアプレーの精神の非常に純粋なものだとでも言いましょうか。山頂を極めたか極めてないかは誰も見ていないんです」


 正直、ぼくには登山家の心境はよく分からない。
 特に寒い冬、暖かい寝床を抜け出て、それもたった独りで厳しい状況にわが身を晒しに出かける。
 魚釣りに出かける人にもそういうケースがあるが、その場合には<魚>という目に見える獲物がある。
 人間は<氷壁>の登山家が言うように、損得ばかりではなく、<フェアプレーの精神>を追い求める崇高な動物なのだろうか。

 ─続く─
 

昭和のマロの考察(63)芸能・スポーツ(12)

2010-10-24 06:39:24 | 昭和のマロの考察
 <2006年W杯ドイツ大会決勝におけるジダン頭突き事件>について、スポーツ・コメンテーターの二宮清純氏が興味深いコメントを書いている。
  

 サッカーW杯の優勝戦でイタリアのDFマルコ・マテラッツイに頭突きをくらわせ、一発退場になったフランスの主将ジネディーヌ・ジダンに非難が集中している。

「世界中の何千万人の子供たちにどう説明するのか」(仏紙レキップ)
 欧州メディアのほとんどが<世紀の愚行>と断じている。
 赤い紙を突きつけられ、ピッチを去ることで彼は十分過ぎるほどの代償を払ったのだが、それだけでは足りないとみなしているようだ。
 憶測だが、マテラッツイは口にできないような言葉を吐いたのだろう。姉を娼婦と呼ばれたという説もあれば、自身をテロリスト呼ばわりされたという説もある。
 真相は藪の中だが、水に落ちた犬は叩けとばかりに<正義の鉄槌>を振り下ろす欧州のメディアよりも、私にはダビド・トレゼゲが口にした「アイツ(マテラッツイ)はカップを勝ち取ったかもしれないが、胸を張ることはできない。サッカーより大切なものが人生にはある」との一言のほうが胸に重く響く。
 ジダンは<キレた>のではない。不条理と戦ったのだ。
 こんな不器用な男がスポーツの世界にいることを、逆に私は誇りに思う。


 正直ぼくもこのニュースを目にしたとき、欧州メディアと同じ感想を持った。「スポーツ選手として見苦しい!」と。

 しかし、詳細を知るに従って二宮氏のように、人間にとって<正義とは何なんだろう>と考えるようになった。
 
 最近、W杯招致を目指す米国の関係者を装ったおとり取材に対し、二人のFIFA理事が、投票の見返りに多額の金銭を要求したと報じられた。
 選手の<正義>を云々している裏で、しかもこの大会の開催決定権を持つ幹部がこんな<不正義>を働いているのだ。

 マイケル・サンデル教授でなくとも、人間社会の<これまでの正義>はどうなっているのだ。<これからの正義>について語り合おうではないか、という気になるではないか。

 明日はスポーツ界におけるフェアプレーの精神について触れてみたい。

 ─続く─
 

昭和のマロの考察(62)芸能・スポーツ(11)

2010-10-23 05:55:45 | 昭和のマロの考察
 毎月恒例、大学名誉教授サロンでの今回のテーマは<これからの正義の話をしよう>という、今大学生の間で大人気のサンデル教授の著作についてだった。
 この本には<正義>とは何なんだと考えさせられる事例がたくさん出てくる。
 詳細は本を読んでいただくことにしてここでは簡単に羅列してみる。

 先ず、有名な<暴走する路面電車>ブレーキのきかない電車が暴走している。5人の作業員が目に入った。このまま進めば5人は間違いなくはねられて死ぬ。 ふと、右側へそれる待機線が目に入り、そこには1人の作業員がいる。ほとんどの人は「待機線に入れ!」というだろう。5人殺すよりましだと考えるからだ。
 同じようなケースで、あなたは傍観者として暴走電車を跨線橋の上に立って見ている。待機線はない。横に太った男がいる。あなたがこの男を橋から突き落とせば暴走電車を阻むことができる。この男は死ぬだろうが5人の作業員は助かる。
 この事例ではほとんどの人は「その男を突き落とすのは完全な間違いだ」と言うだろう。
 ・・・どうやら、道徳上の差は犠牲者に与える影響にではなく、決定を下す人の意図にあるらしい。

 サロンの教授はここで、社員教育に<論語>を愛用した渋沢栄一の例を挙げられた。

 宴会の脇をこれから殺されてみんなに供せられるという<牛>が歩いていく。
 みんなは「可哀相だ」と言う。さてどうするか、孔子に問うてみた。

 孔子は「目の前の牛を助けよ」と言った。

 4人のイギリス人の船乗りが南太平洋の沖合いを救命ボートで漂流していた。持っている食料はカブの缶詰2個だけ。うち3人は<優れた人格の持ち主>と新聞は書いている。
 4人目は雑用係の17歳の少年でほかの3人の忠告にもかかわらず海水を飲み体調を崩していた。結果的にその少年が殺され、3人の食用となった。そして3人は生き延びて救出され裁判にかけられた。
 弁護側の主張は3人を救うために1人を殺すことは必要だった。衰弱していた雑用係はまもなく死んだだろうし、彼には悲嘆にくれる係累もいなかった。

 ここから<正義>への二つのアプローチが明らかになる。
 ①行動の道徳性は行動がもたらす結果だけに依存しているとするもの。つまり正しい行ないとは、総合的に考えて、最善の状況を生み出すすべてのことだというわけである。
 ②道徳的に言えば、結果だけを考えれば良いわけではないとするものだ。つまり、いくつかの義務や権利は、社会的結果とは無関係に尊重されるべきだというのである。

 サロンの教授はここで<原爆投下の正当性>に対するアメリカの考え方を例示した。
 だいたい、欧米人の考え方の基礎にはベンサムの<最大幸福原理>なる<功利主義>があると。

 さて、書こうと思っていたスポーツにおける<正義>の事例は明日に。

 ─続く─

昭和のマロの考察(61)芸能・スポーツ(10)

2010-10-22 06:17:53 | 昭和のマロの考察
 17番は難しいショートだ。
 場面は変わって18番最終ホールでは韓国のカップルが3オンしている。ついに粘りの韓国に抜かれてしまうのか。
 17番にもどって、藍ちゃんがナイスショット。
 1メートル弱のバーディーチャンスにつける。瑠衣ちゃんもワンオンした。

「こんなこと言ったらフェアでないんだけど、ホッとしました」
 最終ホールで韓国のふたりともバーディパットを外すのを見て、観戦している樋口会長がホンネでしゃべっている。そして瑠衣ちゃんには、「固くツーパットで」と何度も繰り返す。

 そして瑠衣ちゃんが打った。球がホールへ向かってまっすぐ伸びる。
 瑠衣ちゃんがパターを高く挙げる。入った。バーディだ。
 瑠衣ちゃんの顔が大写しになる。その泣き笑いの表情に、溜まりに溜まった感情が観る者にビンビンと伝わる。

 藍ちゃんもなんなくバーディだ。一挙に2位に2打差となる。
 最終ホール、パー5。瑠衣ちゃんは3オン。藍ちゃんのボールはわずかにグリーンを外れる。寄せる。ふたりともちょっと嫌な距離を残す。二人外れれば2位と同じスコアになる。緊張するも、先ず藍ちゃんが入れ、瑠衣ちゃんがウイニングパットを決めた。
 優勝だ! 2人は感激の抱擁。目には涙。

「藍ちゃんごめんね、ごめんね」
 瑠衣ちゃんが言っているのが聞こえる。樋口会長も感激に声が震えている。

 観ているぼくも思わず涙。
「いいカップルだった!」東京のスタジオで観戦していた江川卓が何度も繰り返す。 

 北田瑠衣が苦しんでいる姿を見ていて、ぼくはミッキー・ライトの言葉を思い出していた。

 打つ前に私は失敗を考えない。もし失敗の片鱗でも考えた場合、脳裏に失敗の設計図が定着する。次に出来上がる建物は設計図どおり。

 ゴルフも強靭な精神力が問われ、自分との闘いとなる。
 池があると入れるのではないかと思うのは、もう打つ前から失敗を気にしている自分がいる。

 ─続く─ 

昭和のマロの考察(60)芸能とスポーツ(9)

2010-10-21 05:14:05 | 昭和のマロの考察
 <尖閣諸島沖事件>の処理ではからずも<ナショナリズム>が刺激された。 かなたの国では首相はじめこぞって大反発し、今でも各地でデモが頻発し、こなたの対応次第では戦争にまで突入しかねない。
 いまのところ、こなたの冷静な対応でそうなってはいないが、反応のしかた次第でそうなりかねない。
 それほど人間というのは浅はかなものだ。それは歴史が証明している。

 そのガス抜きの役割をしているのが国際スポーツ大会だ。
 サッカーワールドカップなどその典型だ。
 サッカーの優劣を決めるだけではない。自らのアイデンティティ、人生、価値観のみならず、国が試される場となっている。
 今回の南アフリカ大会では<占いタコ>まで現れて自国が勝つかどうかに関心を抱いた。
 わが国も事前の親善試合でふがいない体たらくだったのが、本戦ではまさかの予選突破、ベスト8まで目前という奮闘に国中が沸いた。

 愛する母国を代表して戦う選手たちに我々は<ナショナリズム>の精神を高揚させ、悲喜こもごもの感慨に咽ぶ。
 少し前のことになるが、南アフリカで初めて女子ゴルフのワールドカップが開かれた時のことを思い出した。
 ぼくは夜11時からのテレビに釘づけになっていた。

 そのときの模様をここに再現してみる。

 今日は最終日、テレビをつけると「藍ちゃんが絶好調で2位に6打差をつけ、だんとつトップです」という。・・・6打差?うん、もう間違いないな・・・期待で胸がワクワクする。ところが、ワールドカップは個人戦ではない。宮里藍、北田瑠衣のカップルで戦っているのだ。パートナーの瑠衣ちゃんがダボ、トリ、ダボとスコアを乱す。
 16番で瑠衣ちゃんがまたショートパットを外す。藍ちゃんまで短いパットを外す。
 
 ピンチ! ついに韓国、フィリピンと並んでしまった。
 あのシツコイ韓国。サッカーでも苦渋を舐めさせられ続けている<根性>の韓国が迫ってきている。 ヤバイ!

 ─続く─