昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

金沢便り(16)越中おわら月見風の盆

2009-10-24 12:56:43 | 金沢便り
 <金沢の山ちゃん>から越中おわらの月見風の盆のフォト便りが届いた。

 越中おわら風の盆は毎年9月1~3日に行われる。
 同月下旬には地元主催ではなく、ツアー企画会社の月見風の盆が。諏訪町、上新町のとなり組2町を舞台に越中おわら踊りの町流しを催している。
 
 上新町は商店の灯りが漏れるが、諏訪町は雪洞の灯りだけで、哀愁漂う胡弓などのお囃子にあわせ踊る様は幽玄そのものである。

 ・・・徳島の<阿波踊り>が<浮世>踊りなら、こちらは<憂世>踊りといった趣がある。

 諏訪町の通りの人波

 

 諏訪町の女踊り

 

上新町の町流し

 










エッセイ(29))ある大先輩の死4

2009-10-23 10:14:25 | エッセイ
 ちょうど10年前、三鷹地区同窓会の第1回ゴルフコンペが神奈川県の中津川カントリークラブで開催された時、大先輩はご自身で車を運転されて見えました。

 そのダンディなスタイルにみんなの注目が集まりました。
 ゲーリープレイヤーのように黒でまとめたシックな装いは、特に女性陣の人気の的でした。

 

「どうだね、ぼくとお付き合い願えませんか。もちろんお茶のみ友だちとして・・・」
「でも、Hさんとお付き合いして、赤ちゃんを背負ってお宅の扉を叩くことになるのはご免こうむりたいですわ・・・」
 ターゲットにした中でも若い女性は、Hさんのご発展振りを知っていたのでこう切り返した。 
「いやあ、これは参った」
 豪快に笑い飛ばしていましたが、Hさんはまだまだ色気たっぷりでした。
 
 無事ワンラウンドを回られ、終った後はわざわざ三鷹まで回って麻雀を楽しまれました。
 一人勝ちされ、ご機嫌でまた車を運転して鎌倉まで帰られました。
 もう80歳になられる時のエピソードです。

 

 その後ゴルフは82歳まで参加されました。

 

 麻雀は大動脈瘤の手術をされる直前までやっておられました。
 86歳でした。
 70歳代の我々もまだ若造を意識していられる貴重な存在でした。
 
 御歳90歳、黄泉の国へ旅立たれましたが、H大先輩のはまだまだ我々の心の中に生き続けられます。
 ありがとうございました。
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。
  

エッセイ(28)ある大先輩の死(3)

2009-10-21 07:07:54 | エッセイ
 終戦になって、彼は2500円の退職金と3俵の米をもらった。
 その際、以前から懇意にしていた芸妓から、米兵の慰みになるのは嫌だから身請けしてほしいと懇願された。
 いくら必要か問うと、500円だという。
 これが5人いたものだからちょうど2,500円。
 彼はすからかんになった。

 

 後に置屋のオヤジが短刀を畳に突き立てて、これから儲けようとするところだったのに余計なことをしてくれたと怒鳴り込まれた。
 彼も軍刀を突き立てて、こちらの方が長いぞと応対したそうです。

 ぼくが退職して、三鷹地区の同窓会組織に入会した時、大先輩は鎌倉にお住まいでしたが、わざわざ50キロも離れた会の麻雀やゴルフ会に積極的に参加されていました。
 ぼくも入会以来目をかけていただき、大森の事務所にも誘われてプライベート麻雀を楽しんだり、体験談をお聞かせいただいたり、かわいがっていただきました。

 既に古稀を超えていらっしゃいましたが、鼻梁が高く、眼光鋭い顔に刻まれた深い皺、そして達観した言葉の端々に、これまで波乱万丈の人生を送ってこられた味わいがにじみ出ていました。

 ひと言で評せば、ライオンのような風格がありました。
 そして不死身な方でした。
 交通事故に遭った、階段を踏み外したなどとお聞きして心配していると、翌日にはけろっとした顔で麻雀会に現れる方でした。

 ─続く─

エッセイ(27)ある大先輩の死(2)

2009-10-20 06:59:39 | エッセイ
 軍隊の組織の中では、彼らは人間ではなく、兵器、弾丸の類としての価値にしか見られていなかったのでは、とHさんは述懐されている。

 そんな彼も戦地フィリピンに送られる時がきた。
 名残にと映画を見ていた時、長い刀を引っ張る者がいた。
 ふり向くとかわいい女性だった。
 彼は彼女の家へ誘われ、炬燵に入って話をした。
 いざという時にもんぺがなかなか下ろせなくてイライラする。
 そのうちに空襲警報が鳴り響き、白けてしまってことを成すには至らなかったと言うが・・・。

 その後、フィリピンから沖縄に戻される。
 米軍の総攻撃の前夜、沖に何百隻もの艦隊が海面を被い尽くしている。

 

 48インチ砲からまず光が見え、轟音がとどろき、ドラム缶なみの砲弾が目前に迫ってくる。
 それが50万発以上打ち込まれたという。
 10発中、4発は不発弾で、50年経った今でもその処理にかかっているそうだ。
 ちなみに、日本の火薬技術の方が上だったという。

 急遽、作戦に関わった者が集められ、秘密書類を携行して、12時間かけて板付まで逃れた。
 敵のグラマンなどの飛行機がうんかのごとく飛び交っていたが、彼らの急降下能力がないのに目をつけて、150~200メートルという低空を飛び続け回り道したので時間がかかった。

 彼は末席だったが、作戦参謀の一員だったのが幸いし九死に一生を得た。
 結果的には、入営訓練後のテストの成績がよかったことが幸いしたのだ。
 成績の悪いものから条件のよくない戦地へ送られたのが現実だったと、彼はしみじみとつぶやいた。

 ─続く─

エッセイ(26)ある大先輩の死(1)

2009-10-19 07:07:23 | エッセイ
「愛してるよ!」
 そう言って旅立たれたHさん。
 そう奥さんからお聞きした時、いかにもHさんらしいな、と感動を覚えた。

 Hさんは何といっても<かっこいい>方でした。
「君、ぼくは学生時代ハンサムだったんだぜ。俳優にならないかと言われたこともあったんだ。・・・そんな監督の繰り人形みたいなちゃらちゃらした仕事ができるか!って断ったけどね。・・・若いときの写真持ってきて見せてやるよ」
 学生の頃はアイスホッケーや空手をやるスポーツマンだった。

 Hさんとは、ぼくが退職して大学の同窓会組織に入会してからのお付き合いで、麻雀やゴルフを通じて可愛がっていただきました。
 その中で彼の波乱万丈の体験をいろいろお聞きしました。
 その一部ですが、同窓会の席で話されたエピソードの一部をご披露しましょう。

 卒業後入隊し、最初の訓練期間が終了して成績が優秀だったので騎兵隊の幹部候補生として本部付きとなる。
 
 そのおかげで、本部の長たる有栖川の宮との昼食の末席に連なる栄に与ることになった。
 日ごろ猫またぎなどと呼ばれる<鮭の尻尾>ぐらいしかありつけなかった彼にとって、ステーキなど見慣れないご馳走が並び垂涎の的だった。
 ところが、宮が箸をつけない限り自分が先に食べるわけにはいかない。
 結局うらめしげに見るだけに終ったそうだ。

 

 騎兵隊だったので、帯刀は馬上で振り回すため普通のものより長い。
 刀を吊る革帯は馬の汗ですぐダメになるので金鎖で吊り、ジャラジャラ音を立てるのが粋だった。
 宮から賞状を受ける際、退く時に長い刀に足を取られ、足がもつれてひっくりかえったという笑えないエピソードもあったそうだ。
 (彼ではないそうだが・・・)

 彼が入営した時は、兵隊予備軍として食事以外は休む間もなく訓練に励んだ。
 ものを考える暇を与えないで、ただ組織に従って行動し、上司の命令によってのみ行動する人間に育て上げられる。

 私的リンチも多かったが、それが見逃されたのは、それにも耐えられる人間として鍛えられたのだ。
 同室だったのがやくざみたいな男だったので散々いじめられ、面会に来た母親に愚痴を吐いたら、その男にと50円を渡された。
 それを渡してから男の態度はがらっと変わり、彼は世の中の一面を実感したそうだ。

 ─続く─