昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

昭和のマロの考察(113)文明(3)

2011-01-04 05:51:06 | 昭和のマロの考察
 読みかけの村上春樹<海辺のカフカ>を開く。

「田村カフカくん、あるいは世の中のほとんどの人は自由なんて求めてはいないんだ。求めていると思い込んでいるだけだ。すべては幻想だ。もしほんとうに自由を与えられたりしたら、たいていの人間は困り果ててしまうよ。覚えておくといい。人々はじっさいには不自由が好きなんだ」
「大島さんも?」
「うん、僕も不自由さが好きだ。むろんある程度までということだけどね」と大島さんは言う。
「ジャン・ジャック・ルソーは人類が柵をつくるようになったときに文明が生まれたと定義している。まさに慧眼というべきだね。そのとおり、すべての、文明は柵で仕切られた不自由さの産物なんだ。
 もっともオーストラリア大陸のアボリジニだけはべつだ。




 彼らは柵を持たない文明を17世紀まで維持していた。彼らは根っからの自由人だった。好きなときに好きなところへ行って好きなことをすることができた。彼らの人生は文字どおり歩きまわることだった。歩きまわることは彼らが生きることの深いメタファーだった。

放浪の気がある連中にはそんな野生が潜んでいるんだ。ぼくにはとてもそんな勇気なんてないが・・・。飼いならされた家畜のごとく・・・。
 窓の外を見る。ぼくを乗せた<のぞみ>は疾風のように新横浜駅を駆け抜けた。

イギリス人がやってきて家畜を入れるための柵をつくったとき、彼らはそれがなにを意味するのかをさっぱり理解できなかった。
 
 そしてその原理を理解できないまま、反社会的で危険な存在として荒野に追い払われた。
 だから君もできるだけ気をつけたようがいい、田村カフカくん。結局のところこの世界では、高くて丈夫な柵をつくる人間が有効に生き残るんだ。
 それを否定すれば君は荒野に追い払われることになる。


 要するに、人は<柵>をつくる種類の人間に支配されるということか?

 ─続く─