昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

エッセイ(117)眼中の人

2012-04-28 05:53:53 | エッセイ
 先日の読書会で紹介され、関心を持ってお借りした小島政二郎の「眼中の人」を読んだ。

「眼中の人」とはつねに眼中にあって忘れられない人ということだ。
 小島は、洗練された文章、描写こそが小説の価値を決めると信じていて、「景勝のいいところ」とか、「驚きの目をぼんやりみはった」などという文章を大家が書いているのを指摘して、「現今の日本の文学者ほど、文章に拙劣なものは世界にあるまい」と、「『白樺』一派の鳥糞石」とまで極言している。
 
 それが、尊敬する芥川龍之介から志賀直哉、武者小路実篤などを評価する言葉を耳にすると、だんだん彼らに対する見方が変わってくる。
 小島は育ちがいいせいか素直な性格の持ち主のようだ。
 とくに、菊池寛に対する評価の豹変ぶりが興味深い。
  
 彼が芥川と菊池を前に芭蕉や久保田万太郎などの俳句を「説明調だ」などと腐していると、とつぜん「どうして説明じゃ悪いのかね?」と菊池から言われた。
「どうしてって、説明じゃ、物の本当の姿がありのままの姿で読む人に迫って来ないと思うんですけど」と答えたら、「俳句のことはよくしらないけれど、君は小説の上でも描写万能論らしいけれど、小説なんか描写ばかりでは絶対に書けないじゃないですか」と小島に小説のことで一太刀浴びせかけてきた。

 ・・・何だい、30枚ぐらいの小説の中に「しかし」という意味の「が」という文字を47も平気で使っているような文章を書いているくせに・・・
 小島は、なんと無礼な交際の方法を知らない田舎者だろうと腹が立ったが反論できない。
 その後、上田敏の追慕会で小島は菊池のスピーチを聞く。
 他の人が例外なしに型に嵌ったことやお世辞を述べる中、彼だけは真率な情理兼ね備わった、正直で、しかもぐっと押してくる力のあるスピーチを披露した。
 この時から小島の菊池に対する見方が変化を始める。

 都会人の悪い癖で、小島はそと見の聞いたものを尊敬しがちだった。
 芥川の場合は、ちょいと物をいっても、機智縦横、気の利いた警句。姿形にも洗練された味がある。そこへいくと、菊池は一見、朴訥な書生っぽさ丸出しの田舎者だった。
 で、議論に負けた悔しさで彼の作品を読んで軽蔑してやれと思った。
 「恩を返す話」
 冒頭の・・・近年にない旱炎な日が続いた・・・にケチをつける。
「旱炎な・・とは、何という不熟な文字の使い方だろう」そう思ったが、軽蔑してやれと思っていた最初の心構えはどこへやら。
 生きた人間を押さえて放さぬ真実さに、呼吸を喘がせながら引き込まれていく。
 読み終わった時、興味ある筋の蔭に畳み込まれている人間心理の必死な闘争の生々しい真実さに、小島は海の底から浮かび上がった人間のように感動の潮を吐いた。

 芥川の小説は、仮象の世界を形づくって、色彩豊かに目の前に浮かんでいた。菊池の小説の世界は、目の前に浮かばずに、生々しくすぐ人生の隣に並んでいた。
 この生々しさに小島は強く引き付けられた。文章の粗雑さ、技巧の粗雑さ、小島の嫌いそうなそうしたきめの粗さも、この生々しさの魅力のうちに消えてしまっていた。


 
  

三鷹通信(53)読書ミーティング(2)

2012-04-17 05:09:15 | 三鷹通信
 「ブッダー大人になる道」に関連したところで、現役イラストレーターであり、ライターでもあるTさんからご自分の作品「奈良の仏像100」が紹介された。
 
 この方はナースの経験を経て、現在フリーのイラストレーターであり文筆家として多数の著書を出し、奈良市観光大使も務める超有名な方なのだ。

 仏像にいたくご関心があるようで、他にも「仏像大好き!」「美しき仏像」「勝手に仏像ランキング」「クイズ入門、日本の仏像」とか多数出版。他にも、「わたしがナースを辞めたわけ」とか「イラストレーターに成れた理由」、「社名、商品名の謎」「B型に愛をこめて」など表紙のタイトルやイラストから、つい手に取ってみたくなる本がいっぱい。

 「AB型も書いていただけない?」出版社の女社長からも声がかかったが、ぼくも同感。
 「変な人、AB型」なんてどうかな?
 
 有名と言えば、東京スカイツリーのポストカードを手掛けたイラストレーター。植西聰氏の作品とか、小田急デパートのエコパックのデザインとか活躍多数のOさん。

 他にもFMラジオのパーソナリティ、有名なカウンセラー、ヨガの先生、シナリオライター志望者、地元の大学で生徒たちをサポーとする方など、参加女性陣の多彩なこと。
「ここへ来る間に買っちゃいました」と紹介いただいた「Hanako鎌倉」には、「もうほぼ完売らしいですよ。苦しい時の鎌倉、京都頼みというわけで・・・。でもHanakoは良心的、担当記者が足で目で見て確かな記事を書くから」と評価の声が上がる。

 ノベライズした「銀河鉄道999」は100万部売れましたというHせんせいのご紹介は謝世輝の「新しい世界史の見方」
 時代遅れの世界史は改められなければならない。西洋文明のもたらした物質優先の文化は精神の病的分裂をもたらし、大量殺戮の時代は今や終焉を迎えようとしている、という内容。 
 
 空間デザイナーの方の紹介は、山田ズーニーの「理解という名の愛がほしい」
 
「ぜひ、みなさんも読んで下さい! これでわたしが変わりました」と力説。
 この表紙の本に彼がどうして惹かれたのだろう? と思ってしまう。(失礼)

 第1章、連鎖。2章、本当のことが言えますか? 3章、人とつながる力。という内容。
 冒頭の連鎖では、自分の書いているコラムに悪意のメールが届く。
 気にしないつもりでも気になる。そして消化しきれないまま、母に当たり泣かせてしまう。
 それでも母は自分を攻撃せずあくまで優しく接してくれる。
 そんな人を傷つけた自分はさらに落ち込む。
 悪意は強いものから弱いものへ。権力のあるものからないものへ。おとなからこどもへとはけ口を求める。悪意は連鎖する。
 きれいごとでなく、「ちゃんと生きなければ」と思った。
 人はおもったほど強くない。
 人にはできるだけ優しくしなければ、と。

 ・・・この世の中を悲観的に見がちな自分だが、やはり、人間は前を向いてポジティブに生きるべき動物なんだ・・・ 
 この読書ミーティングでぼくが学んだこと。  
 

三鷹通信(52)読書ミーティング

2012-04-16 05:49:56 | 三鷹通信
<よかった、この本に出会えて!>
 現役編集者主宰の読書ミーティングに三鷹市民協働センターのオーバルルーム?は満席だった。 この楕円形の長いテーブルを置いた部屋は人気だそうだ。
 参加された空間デザイナーの方によると、丸いテーブルは上下関係をつくらず、話し合う場としては最適なのだ。
 楕円形の奥の端に主催者ご夫妻が席を占め、対する面にお二人。長手の両サイドに6人づつ参加者が座って対峙する。 
 計、16名。女性が8人もいて、華やかだ。
 ぼくは、長手方向のまん中に位置して全体が見渡せるが、楕円なのでぼくの右側、一人置いて座っているカウンセラーの女性が死角となってスマートなお顔が見えないのが残念。

 先ず、予め知らされていた本が主催者の解説付きで紹介される。
 
 地元のCB研究会で活動されている方からは、小島政二郎の「眼中の人」
 
  芥川龍之介や菊池寛の知遇を得て自らも文学の道に励むが、彼我の才能の差に苦悩しつつもあきらめない作者の視点で描かれている。
 常に彼の眼中にあって忘れられない大正文壇の人々との交友を大家たちの偉大さとともに、偏狭さ、嫉妬や尊大さを取り混ぜて興味深く描かれている。

 芥川の作に「藪の中」があるが、主宰者が関わった最近の人気ドラマ「家政婦のミタ」とかもそうだが、食い違った見方で人物像を浮かび上がらす手法は、三谷幸喜あたりも好んで使う手法であるというエピソードが紹介される。

 ぼくが紹介したのは立花隆の「文明の逆説」
 
 人生に「ことなかれかし」と願っている人と「ことあれかし」と願う人がいるが、後者の立花隆によれば、現代は「なんと退屈な我らの時代よ」となる。
 しかし、読み重ねた読書の中から彼は<震えるほどの知的興奮>を覚えることになる。
 つまり、世界を大きな構図のもとにとらえなおすことによって。今まで堅牢無比に見えた諸エスタブリッシュメントが、見かけとは裏腹に、根底から崩壊の危機にさらされていると感じとる。
 人間を豊かにすべく発展してきた文明が人間の心と体、本能までも狂わせて、文明の進歩は袋小路に向かっている、と感じたのだ。
 すでに立花隆は、30年前に、人間の心が異常をきたし、環境破壊と地球の持続可能性が問題となる今の時代を洞察していた。

 ホスピスなどで音楽療法に関わっている方からは、アルボムッレ・スマナサーラの「ブッダ─大人になる道」
 ブッダは、人間の苦しみは全て「心の問題」であるとし、その解決法を示している。
 心は物質ではなく巨大なエネルギー、感覚を通して「知識」を構成、「主観」を作った瞬間から苦しみの世界を作っている。
 「主観」を説明する際の蝶とゴキブリに対する説明が面白い。ゴキブリは意外や清潔好きなのだそうだ。触覚に汚物がつくと進めなくなるという。
 幸不幸を決めるのは心のエネルギーの方向なのだ。

 以前、お役人だった方からは、池上永一の「テンペスト」
 NHKドラマで有名になったが、近代化の波が迫る中、薩摩と清国の狭間で揺れる琉球の王朝ドラマ。豪華絢爛たる美と教養にあふれた琉球王国の姿は、一種の中華であるということが分かる。 歴史小説、ファンタジー、沖縄好きには格好のエンターテインメント。

 (ちなみに以上の主催者が用意した4作は希望者に貸し出されたが、「文明の逆説」には誰からも手が伸びなかった)

 その他当日持参された本が紹介されたが、それらは明日に。
 

言葉(14)宮部みゆき、地下街の雨

2012-04-15 04:13:19 | 言葉
 昨日は一日中雨だった。
 
 東京駅の地下街を歩きながら、麻雀会での盲牌のミスを悔やんでいた。
 初っ端、盲牌を間違えてふった牌であたってしまったのだ。しかもなんとその牌で自分が上がっていたのに! バカなことを!
 せっかくの最近の憑きをこれで棒に振ってしまったと・・・。

 そしてなぜか、男に振られた女の心理を巧みに描写した宮部みゆきの<地下街の雨>を思い出していた。

「あら、雨ね」
 窓際の女性が言い、麻子は振り向いた。
 地下街を流れてゆく人ごみのなかに、傘を手にしている人たちが混じっているのだ。ある傘は濡れて光り、ある傘は雨水を滴らせている。
「傘は持ってます?」
 麻子は思わず訊いた、この女性が濡れて帰る様子を思い浮かべるのが嫌だったから。
「ないけど、大丈夫よ。ずっと地下鉄だし、家は駅の近くだから」
 彼女は微笑して、「ありがと」と言った。それからまた、ふっと遠い目をしてつぶやいた。
「地下街の雨、か」
 麻子は身体から盆を離し、彼女の方へ向き直った。
「ずっと地下街にいると、雨が降り出しても、ずっと降っていても、全然気がつかないでしょ? それが、ある時、なんの気なしに隣の人を見てみると、濡れた傘を持っている。ああ、雨なんだなって、その時初めてわかるの。それまでは、地上はいいお天気に決まっているって、思い込んでいる。あたしの頭の上に雨が降っているわけがない、なんてね」
 おめでたいわね、と、彼女は言った。
「裏切られた時の気分と、よく似ているわ」
 彼女が出ていったあと、麻子は、行き交う人たちが手にしている傘をみつめながら考えた。彼女が言ったように、わたしもずっと地下街にいたんだ。外は土砂降りだったのに、何ひとつ気づかずに。
 (ごめんよ。もう君のことは愛してないんだ)
 充の顔が、浮かんで消えた。あなたはわたしを突然地上に引っ張り出して、「君は傘を持ってなかったの?」と言ったのよ・・・

 

エッセイ(116)文明の進化路線に逆らえるか(26)

2012-04-14 04:14:20 | エッセイ
 北朝鮮の「人工衛星打ち上げ」と称する「長距離弾道ミサイル発射実験」は昨13日(金)7時40分頃実施され、失敗に終わった。
 
 15日の故金日成主席の生誕100年、そして三代目の金正恩の国家トップ就任に<力の誇示>を添えることは叶わなかった。

 異例なことだが、彼らは今回の失敗を認めた。
 しかし先代の銅像の除幕式を行い、明日には記念式典を行うであろう。
 そして、ミサイル発射に国際的な非難が寄せられれば、核実験を挙行し、あくまでも<力の誇示>に固執する態度を内外に示すことになるのだ。
 
 近代文明を築き上げたのは、西洋文明における<力>に基づく進化路線だ。
 彼らはその尻尾かもしれないが、<力>にしがみつき通すことが生きる道だと信じている。
 たしかに、アメリカを始めとする列強の振る舞いや、中東におけるイラン、イスラエル、シリアそして、中国の覇権的行動などの絶えざる問題は、いずれもこの<力の誇示>に起因している。

 今月のFサロンのテーマは<原発問題>だった。
 山岡淳一郎の「原発と権力」をベースに勉強した。
 戦前の日本も<力の誇示>によって列強に挑み失敗、国土は廃墟と化した。
 占領したアメリカは<力>でもって日本を無力の平和を志向する農業国に改変することを目指した。
 しかし、たまたま朝鮮半島の有事によりそれは方向転換することになる。
 自国の都合で、余剰小麦を売り込むために、日本の給食制度を利用して、キッチンカーなども使って、「米よりも頭のよくなるパン食を」の大キャンペーンを繰り広げ大成功を収める。

 また、アイゼンハワー大統領は Atom for Pease の演説をぶちかまし、余剰原子力の売り込みにかかる。 日本では1954年、原子力予算が通過、産業界は将来的に軍事と結びつき巨大産業となる見通しから、三菱、日立、三井、住友、古河など財閥系がこぞって参入。
 当初アメリカGEのターンキー方式(ハードとソフト丸ごと)軽水炉を導入した。
 ハードのみならずソフトまで依存してしまったので、独自のこなれたものにならず、後々禍根を残すことになる。
 福島第一原発事故で明らかになったが、その隠ぺいされた欠陥がハード、ソフト両面であった。
 
 日本はさらに、<力>による国際政治に台頭することを狙って、軍事転用可能な高速増殖炉にも手をだし、プルサーマル計画という<希望の星>にも手を付ける。
 多くの国はその難しさに手を引いたが、現在、日本の他ロシア、中国、インドが開発に固執している。

 福島第一原発事故により、ドイツ、イタリアが原発廃止を決め、日本でもその議論が盛んである。
 (昔を懐かしんで、日独伊で列強に挑んでもどうかな?)
 アメリカ、フランスを始め、近隣でも中国、韓国など廃止する気にはなっていないのが世界の大勢である。

 つまり、人類の叡知をもってすれば、原発の問題は解決できる、豊かな生活を目指し文明を進化し続けるのが人類であることを疑わない。
 
 原発を捨てるか否かは<政治>が決めるのだが、独裁国家であろうと、民主主義国家であろうと、問題は先送りして、先へ、先へと進もうとしている。
 財政面でもそうだが、ギリシャ状態になっても<問題は先送り>が政治の本質のようだ。
 

 北朝鮮と同じように、人類はこのまま自信過剰で行き着くところまで走り続け、留まることはないのだろう。

 やはり<文明の進化路線>に逆らうことはできないのか。 

言葉(13)太宰治、富士山と月見草

2012-04-10 04:29:14 | 言葉
 少年の頃、「スゴイ!」と眺めた富士山も何度も見るうちに、偉大であるだけに余計、屈折した大人の目で眺める対象になる。

 太宰治<富岳百景>から。
 <富士> 頂角東西124°南北117°広重85°北斎30°鈍角も鈍角、のろくさと拡がり決して秀抜の、すらりと高い山ではない。裾のひろがっている割に低い。  


 ・・・あらかじめ憧れているからこそ、ワンダフルなのであって、そのような俗な宣伝を、いっさい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に果たして、どれだけ訴え得るか。
 十国峠から見た富士だけは、高かった。あれはよかった。はじめ雲のために、いただきが見えず、私はその裾の勾配から判断して、たぶん、あそこあたりが、いただきであろうと雲の一点にしるしをつけて、そのうちに雲が切れて、見ると、ちがった。私があらかじめ印をつけて置いたところより、その倍も高いところに、青い頂が、すっと見えた。
 おどろいた、というよりも私は、へんにくすぐったく、げらげら笑った。やってやがる。と思った。人は完全のたのもしさに接すると、まずだらしなくげらげら笑うものらしい。全身のネジが、帯紐といて笑うといったような感じである。

 
 東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬にははっきり、よく見える。小さい、真っ白い三角が、地平線にちょこんと出ていて、それが高さだ。なんのことはない。クリスマスの飾り菓子である。
 
 御坂峠の富士。
 ここから見た富士は、富士三景の一つにかぞえられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった。好かないばかりか、軽蔑さえした。あまりに、おあつらいむきの富士である。
 まんなかに富士があって、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひっそり蹲って湖を抱きかかえるようにしている。私は、ひと目見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった。

 ・・・女車掌が、思い出したように、みなさん、きょうは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分のひとりの詠嘆ともつかぬ言葉を、突然言い出して、リュックサックをしょった若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆって口元を大事にハンケチでおおいかくし、絹物をまとった芸者風の女など、からだをねじ曲げ、一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた感嘆を発して車内は、ひとしきり、ざわめいた。
 けれども、私のとなりのご隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがって、富士山には一瞥も与えず、かえって富士と反対側の、山路に沿った断崖をじっと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、あんな俗な山見たくもないという、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思って、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる頼まれもせぬのに、共鳴のそぶりを見せてあげたく、老婆に甘えかかるように、そっとすり寄って老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を眺めてやった。
 老婆も何かしら、私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやりひとこと、「おや、月見草」そう言って、細い指でもって路傍の一箇所をゆびさした。さっとバスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらっとひと目見た黄金色の花ひとつ花弁もあざやかに消えず残った。

 
 三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草は、よかった。富士には月見草がよく似合う。  

言葉(12)アイリッシュ・死の治療椅子

2012-04-09 05:37:13 | 言葉
 言葉(9)でも述べたが、ぼくは美文調のアイリッシュ節にはまっている。
 デートの描写のように甘いものより、死体発見現場の描写の方により持ち味が出ている。

 <死の治療室>より。
 そこまでは彼らにとっては純粋たるきまり仕事だったのだが、診察をおえた救急医がカバンをさげてあらわれ、あとからスティーヴがつづいて出てきたいま、事情はかわった。
 救急医はスティーヴにはなにもいわず、警官に、「心臓じゃなかった」といった。「署に電話して検視官をよんだほうがいい。捜査員を二、三人連れてくるかもしれん」
「どうしたというんです」スティーヴはつとめて平静をよそおったが、あまりじょうずではなかった。警官はすでに受話器をつかんでいた。
「自然死じゃないね」救急医はぶすっといった。それいじょうはいわない。肩をすくめたのが、・・・わたしの仕事じゃないよ・・・という意味だった。
 帰りがけ、スティーヴのほうを妙な目つきで見たような気がした、仰々しい鈴がまたジャラジャラ鳴って、医者の出たあとにドアはしまった。
 そのあと警官は、目に見えて不愛想になり、ドアの横にがんばって、見張り然とかまえた。 いちどスティーヴが、なにかで診察室へはいりかけると、マスティフ犬が骨をくわえたみたいなかたちに上唇があがり、うなるような声で警告した。「おちつくんだな」
 なかなか好漢だ──おなじ垣根内にいるかぎり。
 検視官と<捜査員二、三人>は、まもなくかけつけた。なんだかエネルギッシュな不動産屋たちという感じだが、わたしは刑事とひとつ部屋にはいるのははじめてだった。


 昨日、わが作品<レロレロ姫>について、プロの編集者から厳しくも衝撃的なアドバイスをいただいた。
 「はやぶさ」への関心や「宇宙本の売り上げ」が示すように、「地球外生命への関心」「宇宙からのメッセージ」が、時代の要請・新しいパラダイムになりつつある。この物語のテーマは”現代的”といえる。
 とした上で、<意味>や<論理>に頼りすぎ。小説は”イメージ”で示すもの。すべて描写によって示されないと・・・、と、懇切なご指摘をただいた。
 まさにぼくにとっては衝撃的なアドバイスだった。
 才なき身で、難しい課題ではあるが、改造に向けて最後のチャレンジをしてみたい

言葉(11)現代短歌

2012-04-08 05:56:30 | 言葉
 芸術の素晴らしさは、その道のプロが取り上げ解説してもらうことで、我々シロウトはその真価を知る。
 その一例を、長らく朝日新聞に連載された<折々のうた>の中で示してこられた大岡信氏が取り上げた<現代短歌>に見てみよう。

 夜の渋谷公園通り 薔薇色の臓器を吊りて ピピピして居り  
 (佐々木幸綱)

 
 渋谷公園通り。日本でもたぶん一番雑踏の名が似合う地域だろうが、そこの夜景に取材する。
 俗語に類する擬音語を駆使して、現代風俗の先端を読みすえていく野心的な歌。
 <薔薇色の臓器を吊りて>は印象的な比喩で、なまなましい若者たちの無防備な生態も、ひたひたと押さえている。
 <ピピピして居り>はもちろんケータイ。
 こんな風俗も噛み砕いてしまう、なんとも不死身な短歌定型。

 使ひふるされし臓器が 他者といふ敵地のなかに 灯るしずけさ 
 (岡井 隆)

 
 現代短歌を先導する歌人たちが、期せずして臓器を自作で採りあげているのは面白い。
 社会の関心事への果敢な取り組みだろう。
 この歌の場合、別の肉体へ移植された臓器が歌の主題だが、<使ひふるされし臓器><他者といふ敵地>などの表現に、複雑な情感が盛られていて、巧みな現代短歌。

 たまはりし性に居直る娘らの腿 十数本が路上にころがる 
 (島田修三)

 ぎょっとするような歌い口で、これが作者の特長の一つ。
 元来、ある女子大学の謹直で有能な教授。
 触目の風俗を過激で皮肉な、また諧謔的な歌い方で鮮烈に表現する点、現歌壇随一の辛口歌人だ。
 
 大学の休み時間の風景だろう。
 天から授かった女という性に居直る女子学生たちのくつろいだ姿態の描写。
 中年男のまぶしげな目に映る、若さに自足する女たちの戯画として不敵なもの。

 昨日、昨年の年間成績準優勝と相性のいい横浜の麻雀会に参加。
 四回戦すべて、マイナスとなり、28名中下から三番目。ブービー賞にも与らず。
 「どうしても」と誘われた二次会に敢えて参戦。
 ところが快調に滑り出し、ダントツのトップで迎えた終盤、間三万、タンヤオで聴牌。
 その日憑いていない親から三万が出た。上がればトップ確定だ。
 しかし、上がらなかった。五万がくれば、ピンフ、三色の可能性がある。それからリーチをと欲張ったのだ。
 そして、親マンを振り込む結果となりその場のトップを逃した。
 ・・・上がっているのに上がらないと悔やむ結果になる・・・
 いつも心しているのに魔が差した日だった。