<独裁者、毛沢東をめぐる女と男>①
1975年2月15日、毛沢東主席の病状について説明する政治局会議が行われた。
周恩来首相、小平副主席ほか政治局員がずらりと列席する中、医師団が説明した。
筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリッグ病)の疑いがもたれていることを説明しだすと、政治局員の多くは混乱をきたした。
江青が質問の先陣をきった。「つまり、これは珍しい病気だとおっしゃるわけですね」ときく、「じゃ主席はどうしてそんな病気にかかったのですか。その証拠は?」
江青の質問の多くに私たちは答えられなかった。
この病気に罹ると死は時間の問題で2年しかもたないと言われている。
毛沢東はそんな状態だったのだ。
この年の10月には政治状況は耐えがたいぐらいに極度に緊迫していた。
江青の反小平キャンペーンがつづき、江青は毛沢東との接触を制約されていたものの、毛沢東の甥の毛遠新やお付の張玉鳳をつかって自分の意のあるところをつたえつづけた。
ガンに侵されていた周恩来首相が1976年1月8日に亡くなった。
3月中旬、死者を追悼する清明節の行事が4月4日に行われることを知っている北京市民は、周恩来への哀悼の花輪をささげようと天安門広場におとずれはじめる。
この動きは自然発生的なものであり、群集は日ごとにその数を増していった。
死をいたみ、かついきりたつ群衆が日ましにおしよせてくる。江青とその一派が攻撃の矢面に立たされていった。清明節の休日である4月4日の夕刻、群衆は数十万人にふくれあがった。政治局はどんな対策をとるべきかを決めるために会議を招集する。政治局は整然としたこのデモが意図的なものであり、計画的な反革命運動の一環であるという結論をだした。
毛沢東は会議に出席しなかったけれど、毛遠新が主席の連絡役をつとめた。毛遠新が政治局の審議経過を要約した報告書を主席にとどけると、主席は同意した。
その夜、広場から花輪、旗、プラカードを撤去して、反革命分子の逮捕にかかれという命令がだされる。
あくる4月5日、状況は暴動へと一変していく。 怒ったデモ隊は民兵、警官、人民解放軍の兵士と衝突を開始した。
増援部隊が投入され、その夜9時までに民兵1万人警官3千人、公安部隊5大隊が広場を封鎖し、広場に残ったデモ隊に殴りかかって逮捕した。
江青は当日、朝からずっと広場の西側にある人民大会堂ですごし、双眼鏡をつかって群衆の動きを観察した。
<反革命分子>鎮圧の成功を主席に報告にきたとき、私は応接室にいた。──
江青一派の大勝利であった。彼女が毛にどんな報告をしたのか私は知る由もない。
・・・江青は勝ち誇ったように主席の部屋から出てきて、マオタイ酒、ピーナッツ、焼き豚で祝おうと私たちを誘った。
「わたしたちの大勝利よ」
彼女は祝杯の音頭をとりながら、「乾杯。わたくし、これから棍棒になる。いつだってたたきのめしてやるから」
それは不愉快な経験であり、神経を逆撫でされたような気がした。
(リシスイ<毛沢東の私生活>から)
─続く─
1975年2月15日、毛沢東主席の病状について説明する政治局会議が行われた。
周恩来首相、小平副主席ほか政治局員がずらりと列席する中、医師団が説明した。
筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリッグ病)の疑いがもたれていることを説明しだすと、政治局員の多くは混乱をきたした。
江青が質問の先陣をきった。「つまり、これは珍しい病気だとおっしゃるわけですね」ときく、「じゃ主席はどうしてそんな病気にかかったのですか。その証拠は?」
江青の質問の多くに私たちは答えられなかった。
この病気に罹ると死は時間の問題で2年しかもたないと言われている。
毛沢東はそんな状態だったのだ。
この年の10月には政治状況は耐えがたいぐらいに極度に緊迫していた。
江青の反小平キャンペーンがつづき、江青は毛沢東との接触を制約されていたものの、毛沢東の甥の毛遠新やお付の張玉鳳をつかって自分の意のあるところをつたえつづけた。
ガンに侵されていた周恩来首相が1976年1月8日に亡くなった。
3月中旬、死者を追悼する清明節の行事が4月4日に行われることを知っている北京市民は、周恩来への哀悼の花輪をささげようと天安門広場におとずれはじめる。
この動きは自然発生的なものであり、群集は日ごとにその数を増していった。
死をいたみ、かついきりたつ群衆が日ましにおしよせてくる。江青とその一派が攻撃の矢面に立たされていった。清明節の休日である4月4日の夕刻、群衆は数十万人にふくれあがった。政治局はどんな対策をとるべきかを決めるために会議を招集する。政治局は整然としたこのデモが意図的なものであり、計画的な反革命運動の一環であるという結論をだした。
毛沢東は会議に出席しなかったけれど、毛遠新が主席の連絡役をつとめた。毛遠新が政治局の審議経過を要約した報告書を主席にとどけると、主席は同意した。
その夜、広場から花輪、旗、プラカードを撤去して、反革命分子の逮捕にかかれという命令がだされる。
あくる4月5日、状況は暴動へと一変していく。 怒ったデモ隊は民兵、警官、人民解放軍の兵士と衝突を開始した。
増援部隊が投入され、その夜9時までに民兵1万人警官3千人、公安部隊5大隊が広場を封鎖し、広場に残ったデモ隊に殴りかかって逮捕した。
江青は当日、朝からずっと広場の西側にある人民大会堂ですごし、双眼鏡をつかって群衆の動きを観察した。
<反革命分子>鎮圧の成功を主席に報告にきたとき、私は応接室にいた。──
江青一派の大勝利であった。彼女が毛にどんな報告をしたのか私は知る由もない。
・・・江青は勝ち誇ったように主席の部屋から出てきて、マオタイ酒、ピーナッツ、焼き豚で祝おうと私たちを誘った。
「わたしたちの大勝利よ」
彼女は祝杯の音頭をとりながら、「乾杯。わたくし、これから棍棒になる。いつだってたたきのめしてやるから」
それは不愉快な経験であり、神経を逆撫でされたような気がした。
(リシスイ<毛沢東の私生活>から)
─続く─