昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

昭和のマロの考察(87)女と男(18)

2010-11-30 05:59:02 | 昭和のマロの考察
 <独裁者、毛沢東をめぐる女と男>①

 1975年2月15日、毛沢東主席の病状について説明する政治局会議が行われた。
 周恩来首相、小平副主席ほか政治局員がずらりと列席する中、医師団が説明した。
 筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリッグ病)の疑いがもたれていることを説明しだすと、政治局員の多くは混乱をきたした。

 江青が質問の先陣をきった。「つまり、これは珍しい病気だとおっしゃるわけですね」ときく、「じゃ主席はどうしてそんな病気にかかったのですか。その証拠は?」
 江青の質問の多くに私たちは答えられなかった。

 この病気に罹ると死は時間の問題で2年しかもたないと言われている。
 毛沢東はそんな状態だったのだ。

 この年の10月には政治状況は耐えがたいぐらいに極度に緊迫していた。
 江青の反小平キャンペーンがつづき、江青は毛沢東との接触を制約されていたものの、毛沢東の甥の毛遠新やお付の張玉鳳をつかって自分の意のあるところをつたえつづけた。

 ガンに侵されていた周恩来首相が1976年1月8日に亡くなった。

 3月中旬、死者を追悼する清明節の行事が4月4日に行われることを知っている北京市民は、周恩来への哀悼の花輪をささげようと天安門広場におとずれはじめる。
 この動きは自然発生的なものであり、群集は日ごとにその数を増していった。

 死をいたみ、かついきりたつ群衆が日ましにおしよせてくる。江青とその一派が攻撃の矢面に立たされていった。清明節の休日である4月4日の夕刻、群衆は数十万人にふくれあがった。政治局はどんな対策をとるべきかを決めるために会議を招集する。政治局は整然としたこのデモが意図的なものであり、計画的な反革命運動の一環であるという結論をだした。
 毛沢東は会議に出席しなかったけれど、毛遠新が主席の連絡役をつとめた。毛遠新が政治局の審議経過を要約した報告書を主席にとどけると、主席は同意した。
 その夜、広場から花輪、旗、プラカードを撤去して、反革命分子の逮捕にかかれという命令がだされる。


 あくる4月5日、状況は暴動へと一変していく。 怒ったデモ隊は民兵、警官、人民解放軍の兵士と衝突を開始した。
 増援部隊が投入され、その夜9時までに民兵1万人警官3千人、公安部隊5大隊が広場を封鎖し、広場に残ったデモ隊に殴りかかって逮捕した。


 江青は当日、朝からずっと広場の西側にある人民大会堂ですごし、双眼鏡をつかって群衆の動きを観察した。

 <反革命分子>鎮圧の成功を主席に報告にきたとき、私は応接室にいた。──
 江青一派の大勝利であった。彼女が毛にどんな報告をしたのか私は知る由もない。
 ・・・江青は勝ち誇ったように主席の部屋から出てきて、マオタイ酒、ピーナッツ、焼き豚で祝おうと私たちを誘った。
「わたしたちの大勝利よ」
 彼女は祝杯の音頭をとりながら、「乾杯。わたくし、これから棍棒になる。いつだってたたきのめしてやるから」
 それは不愉快な経験であり、神経を逆撫でされたような気がした。

 (リシスイ<毛沢東の私生活>から)

 ─続く─

エッセイ(33)八坂神社の結婚式

2010-11-29 05:18:59 | エッセイ
 昨年の11月2日から脅迫観念に駆られるようにこの一年間、毎日欠かさず続けてきたブログがついに昨日、空白日を作ってしまった。
 家内の姪の結婚式で京都まで出かけたのだ。
 隠遁の身なので、参加は遠慮したのだが、花嫁の「どうしても伯父さんに参加してほしい」と言われ行って来たのだが、本当によかった。

 錦秋の京都、八坂神社の境内で記念写真をいっぱい撮って、
 控え室に集まった親族は花嫁花婿を先頭に行列を組んで式の行われる本殿まで歩く。
 時あたかも観光シーズン、しかも天気に恵まれて内外からの観光客でたいへんな人ごみである。
「結婚式をされる行列がお通りになりますので、しばらくの間道をお譲りください」 

 申し訳なくも、我々は何百人と取り囲む観光する方々の群れを割って、あたかも何様になったかのような気分で行進する。
 凝視する人々の目、フラッシュの中、「だれ? スターなの?」という声も聞こえる。

 

本殿では神主の「かけまくも、かしこみ・・・」「いやさかの・・・」と祝詞をいただき、生の太鼓や笙の音が厳かに響く。
 背後から時折お賽銭を投げ入れる音が聞こえる。

 滞りなく式を終え、裏手の料亭で開かれた披露宴で、「我々も得がたい経験をさせていただきました」と挨拶する。
 たまたま新郎新婦は同じ企業に勤めて知り合った仲だが、その企業に勤めていた後輩を思い出し、「I君て知ってる?」と聞いたら「もちろん知ってますよ。I専務でしょ」
「あの目立つお顔の・・・」とひょんなところでつながりがあった。

 最後に花嫁のお母さんの「10年もお付き合いしていて、この二人はどうなるのだろうとやきもきしていましたが、一方では娘の日ごろの穏やかな顔つきから、やっぱりこうなったのだと本当にうれしい気持ちでいっぱいです」という挨拶が印象的だった。

 体育会系のふたりの新婚旅行はカナダでスキーだそうだ。

 Cちゃん、おめでとう。お幸せに。

 

昭和のマロの考察(86)女と男(17)

2010-11-26 07:09:04 | 昭和のマロの考察
「本当に淋しい男は、Bパターンです」・・・
「俺もそう思う。出て来てくれない時に、本当にがっかりするのもBパターン。絶対にAパターンじゃない」
「女ってどうして、Bパターンの寂しさがわかんないのかなア」
「わかんないんだよな。・・・俺だってAパターンで言えりゃいいとおもうけど、必死こいてる心を隠してBパターンだもんな・・・」
「うん・・・。ついでがあったら出て来て、みたいなこと言って、実は来てほしくってたまらなくて」
「Aパターンなんて、内館だんがダメなら、すぐに別の女に電話して同じこと言っちゃえるんだよな」・・・


 周りを見るとこのタイプが圧倒的に多い。

 ホリプロの川島プロデューサーに同じことを聞いてみた。
「僕はAでもBでもありません」
「あら・・・。他にパターンがあるんですか」
「はい。お願いパターンです」
「何ですか、それ」
「ですから、『お願いします。出て来て下さい。お願いです。お願いします』って、これですかね」


 そういえば、中学校の同窓生、H君なんてこのタイプかな。
 イケメンとは言えないが、女の子に絶大な信用があるからな。
 彼が声をかければたちまち女の子が集まってくる。

 私はCパターンがあることを初めて知った。・・・
「でも、一番淋しい男はBパターンですね。AとCはすぐに別な女にケロッと、同じパワーで同じことが言えます。でも、Bは一人に言ってダメなら、もう言えません。Bの言い方はエネルギーを使うんです。Bが一番淋しくて、一番誠実な男です」・・・
 女はとかくストレートな男に弱い。・・・
 男女平等の世になり、機会均等法ができても、今なお女たちの多くが口にするではないか。
「好きなタイプは、アタシをグイグイ引っ張ってくれる人です」
 Aパターンにはそれが匂う。そんな男なのに寂しさが見えて、そのギャップに女は弱い。
 また、女がよく言う言葉に、「彼って、アタシがいないとダメなのよ」
 Cパターンにはそれが匂うから、ほだされる。

 一番淋しくて、一番誠実なBパターンは女からみると、遠慮がちで、いい人だなアとは思うが、無理に行くこともないか・・・となる。
 Aパターンは<いい人>とは思われないが、<いい男>とは思われる。

  
 うーん伊達男、T君なんかこのタイプだな。口が悪くて強引だが、女たちは表面的には批判していても心の中では許しちゃってる。

 女は一度<いい人>と思ったら、なかなか<男>として見なくなるのだから、男たるものは遠慮せずに、思いをストレートに言った方が勝ちである。
 (内館牧子<男は謀略、女は知略>から)


 と言われてもいまさら変えるわけにもいかず。
 気がふれたかと思われるのが関の山だ。

 

昭和のマロの考察(85)女と男(16)

2010-11-25 05:50:55 | 昭和のマロの考察
 女から見ていい男とは。
 元横綱審議会委員の内館牧子さんのご高説を拝聴しよう。

 時々、男たちが酒場から電話をかけてくる。・・・
 
 男たちには二つのパターンがあることに気づいたのである・
 つまり電話で呼び出すときのパターンである。
 まず、Aパターン。
「今、六本木○○でのんでるんだけど、出て来てくれない? いいよ、化粧なんて落としたままで。どっちみち大差ないんだから。すぐに来れる? 何分で来れる? え?何だって30分もかかるんだよ。15分もありゃこれるだろ。じゃ、15分後ね。早くね。待ってるから」


 うーん、まさしくS先輩だ。マージャン大会の後の二次会で女どもを束ねてまたやっている。
 オリンピックに出たこともある体育会系だが、今や「人畜無害だよ」と言う喜寿を迎えるソフト帽を粋にかぶった伊達男だ。
 H大先輩もこのタイプだった。やはり体育会系で「いいんだろ? どうせ暇なんだろ?」って感じで。しかし傘寿を超えてからめっきりおとなしくなってしまったが。

 そしてBパターン。
「今、六本木で飲んでるんだけど、こんな時間だもんなア、もう寝る準備しているよね。イヤ、いいんだ、今夜じゃなくても。また別の日に飲もう。うん、今日は遅いし、俺も明日、ゴルフだしさ。ところで元気?


 うーん、これは同じマージャン仲間の優しい、気遣いの男I氏かな?
 M君や昭和のマロもこっちタイプだな。

 たいていの男はAかBのどちらかに入るはずである。
 女は、AとBのどちらに弱いか。私の周囲の女たちに聞いてみたら、案の定、圧倒的にAパターンに弱い。
 ・・・むろん、あまり命令口調ではダメだが、どうもAパターンの男のほうが必死に待っている感じがして、何か断れない。
 出て行かないと寂しがるだろうなアと、心が疼くのである。・・・

 別にCパターンがあるのだそうだ。これは明日。

 ─続く─
 
 

昭和のマロの考察(84)女と男(15)

2010-11-24 05:59:39 | 昭和のマロの考察
 人間は理性的で高尚な特別な生き物で、いずれは弱肉強食などという現状から脱却した文明を築けると期待されているが、動物行動学者・リチャード・ドースキンによれば、そうはいかないという学説もある。
 竹内久美子さんの<賭博と国家と男と女>から引用してみる。

 リチャード・ドースキンが提出した大発想、<利己的遺伝子仮説>とは、生命の主体が固体にあるのではなく、遺伝子の側にあるとするものである。

 本当に利己的なのは固体ではなく、遺伝子なのだと考える。

 たとえば固体は一見、利己的にも利他的にもふるまうように思えるが、それはすべて遺伝子が利己的であることの表れである。
 親は子に利他的にふるまうと言うが、何のことはない、子にコピーを乗り移らせた親の遺伝子が、コピーを守ろうとして単に利己的であろうとしているに過ぎないのだ。 
 固体は悠久の時間を旅する遺伝子の乗り物(ヴィークル)で、古くなれば打ち捨てられる。
 それが死というわけだが、遺伝子には死というものがない。
 遺伝子は何度複製されても、古くならないし、磨耗することもない(コピーミスはある)。
 遺伝子のコピーは次々新しい乗り物に移っていく。固体の繁栄とはその過程のことである。
 利己的遺伝子の願いはひたすら自分のコピーを増やすことだ。
 そのために乗り物や乗り物どうしのふるまいを巧みに操作する。
 たとえば新しい乗り物(子)に乗り移った利己的遺伝子は、古い乗り物(親)を繰り、新しい乗り物の保護や成長のために全力投球させようとする。
 親がわが子のためならどんな苦労も厭わないのはそのためだ。・・・


 つまり、遺伝子自身が生き残るために私たちの体をハイジャックしているというわけだ。そこから女と男の関係が浮かび上がってくるものは?

 浮気もじつは、美人とセックスすることで美形で頑強な遺伝子を残そうという企みにすぎず、肉体は遺伝子によって操作されているとしている。
 美人にすぐに声をかけて仲良くなろうとするが、それもみな遺伝子のせいなのだ。
 女房に浮気がばれても「私は覚えがない。遺伝子のやつが悪いのだ」といって言い逃れができそう。
 また結婚して子どもを作った男が冒険心を失ったり、発想に面白みがなくなったりするのは、遺伝子が役割を終えたためという。


 ─続く─

昭和のマロの考察(83)女と男(14)

2010-11-23 06:11:13 | 昭和のマロの考察
 駒沢喜美さんは<魔女の論理>の中で、女性には<母性本能>があるからなどという言葉で、女性を弱者の立場に貶める男性的な発想に我慢ならないと言っている。
 そもそも、<弱肉強食>の現代の男の世界は文明以前だというわけだ。

 現在問題になっているさまざまな差別とか抑圧のなかで、男女のそれほど巧妙な形態はない。
 そして女みずからがそれを自己の役割と思い込んでおり、もっと言えば、喜んでその役割を背負い、女は家にいるのが幸福なんだというふうな観念操作をされてしまっている。
 男らしさ女らしさなどというふうな概念なそも男主体の発想だと思う。
 <女らしさ>というのは、極論すれば家来道であり、<男らしさ>というのは帝王学にほかならない。
 主従の関係が美意識的に定着したものが<男らしさ><女らしさ>にほかならないとわたしは考える。

 ところで、もうひとつやっかいなのは母性本能という問題がある。

 女が育児や家事に縛りつけられる決定的な根拠は母性本能であるとよく言われる。
 しかし、育児は本能ではない。そのことは、現に種々の状況的な因由で子どもを殺す母親はいくらでもいるわけで、それをみただけでも、育児は母性本能でないことは明白である。
 にもかかわらず、それを本能と言いくるめる現実が先行しているのである。
 そのように考えると、人類というのは、シャルル・フェーリエも言っていることで、わたしも非常に共鳴するのだが、現代はまだとても文明の時代などとは言えない。
 文明以前だと思う。言ってみれば、弱肉強食の段階だということである。
 本当に人間らしい歴史段階とは弱肉強食時代を克服した時代をこそ言うべきである。

 人種差別にしても、植民地問題にしても、女の問題にしても、現代社会を貫いているのは弱肉強食の論理以外ではない。

 そして、とくにこの話のテーマとの関連で、女は何故弱者になったかと言えば、女が子孫を残す能力をもっているために、その能力の反面の生理的負担をになわざるを得なかったということだと思う。
 母性本能などという言い方の根拠はそういうところにしかないとわたしは考える。


 しかし、人間は動物学的生理を克服できるのだろうか。
 弱肉強食的見方で言えば、<利己的遺伝子>というユニークな学説もあるが、それは次回で。

 ─続く─ 

昭和のマロの考察(82)女と男(13)

2010-11-22 09:01:52 | 昭和のマロの考察
 男性は、女のボスは不満をはっきり伝えてくれないと感じる。
 

 そして女性は、男のボスは満足をはっきり伝えてくれないと感じる。
 女はたがいにほめあって<親和>を築く儀礼に慣れている。
 しかし男は、逆にけなしあう<対立>のなかで友愛を示す儀礼に慣れている。
 だから女は、人に不満や批判といって否定的な評価を伝えることに、とても気おくれを感じる。
 そして男は、人に満足や称賛といった肯定的な評価を伝えることに、とても不器用なのである。・・・
 私たちの文化の根底には、残念ながらこんな意識がないだろうか。
 <男=標準・基準>、そして<女=例外・特殊>(さらには下位・劣等>・・・
 友人:「なあ、彼女を見てみろよ。どんな男もあたしの魅力には勝てないでしょ、ってな自信だぜ」
 学生:「ほんと」
 友人:「ベッドの上で、男のすごさを教えてやる必要があるよな」

 学生はこんな分析をしていた。
 友人はセクシーな女性を前に、その抗しがたい性の力に支配される自分が、一段下の<地位>に置かれたようで腹だたしかったのだ、と。
 だから、なんとかして主導権をとりもどす反撃に出たかったのだ、と。
 いずれにせよ、セクハラの根底には、そんな男の暴力に対する女の恐怖がある。
 そもそも、女が<野獣>と化す男を恐れるなら、男は<魔女>と化す女を恐れている。
 
 

 美しい姿で男を惑わし、心を許して近づいてきたなら、引き裂いて食い尽くす・・・。

 女性はセクハラを受けたと訴えることで、男性を少なからず傷つけられるのだ。たとえ偽証であっても、いや、偽証だからこそ深く大きく。罪のない男を食い尽くす恐ろしい魔女のように。(デボラ・タネン<男と女の会話スタイル)


 ─続く─

昭和のマロの考察(81)女と男(12)

2010-11-21 06:04:33 | 昭和のマロの考察
 <男の性愛>

 僕自身は知らない女の子と寝るのはそれほど好きではなかった。
 性欲を処理する方法としては気楽だったし、女の子と抱きあったり体をさわりあったりしていること自体は楽しかった。
 僕が厭なのは朝の別れ際だった。
 目がさめるととなりに知らない女の子がぐうぐう寝ていて、部屋の中に酒の匂いがして、ベッドも照明もカーテンも何もかもがラブ・ホテル特有のけばけばしいもので、僕の頭は二日酔いでぼんやりしている。
 やがて女の子が目を覚まして、もそもそと下着を探しまわる。
 そしてストッキングをはきながら「ねえ、昨夜(ゆうべ)ちゃんとアレつけてくれた? 私ばっちり危ない日だったんだから}と言う。
 そして鏡に向かって頭が痛いだの化粧がうまくのらないのだとぶつぶつ文句を言いながら、口紅を塗ったりまつげをつけたりする。

 そういうのが僕は嫌だった。
 だから本当は朝までいなければいいのだけれど、12時の門限を気にしながら女の子を口説くわけにもいかないし(そんなことは物理的に不可能である)どうしても外泊許可をとってくりだすことになる。
 そうすると朝までいなければならないことになり、自己嫌悪と幻滅を感じながら寮に戻ってくるというわけだ。
 日の光がひどく眩しく、口の中がざらざらして、頭はなんだか他の誰かの頭みたいに感じられる。
 
 僕は3回か4回かそんな風に女の子と寝たあとで、永沢さんに質問してみた。こんなことを70回もつづけていて空しくならないのか、と。
「お前がこういうのを空しいと感じるなら、それはお前がまともな人間である証拠だし、それは喜ばしいことだ」と彼は言った。
「知らない女と寝てまわって得るものなんて何もない。疲れて、自分が嫌になるだけだ。そりゃ俺だって同じだよ」
「じゃあどうしてあんなに一生懸命やるんですか?」
「それを説明するのはむずかしいな。ほら、ドストエフスキーが賭博について書いたものがあったろう? あれと同じだよ。つまりさ、可能性がまわりに充ちているときに、それをやりすごして通り過ぎるというのは大変にむずかしいことなんだ。それ、わかるか?」
「なんとなく」と僕は言った。
「日が暮れる、女の子が町に出てきてそのへんをうろうろして酒を飲んだりしている。彼女たちは何かを求めていて、俺はその何かを彼女たちに与えることができるんだ。
  

 それは本当にかんたんなことなんだよ。水道の蛇口をひねって水を飲むのとおなじぐらい簡単なことなんだ。
 そんなのアッという間に落とせるし、向こうだってそれを待ってるのさ。
 それが可能性というものだよ。
 そういう可能性があって、その能力を発揮できる場があって、お前は黙って通り過ぎるかい?」(村上春樹<ノルウエイの森>から)


 ─続く─

昭和のマロの考察(80)女と男(11)

2010-11-20 06:06:11 | 昭和のマロの考察
 女と男の性愛について、現代を代表する二人の女流作家の見解を紹介する。

 
真賀木と充子の性愛の場をかりて、女のことをよく知らぬ、テクニック至上主義の男性にひとこと書き添えれば、いまベッドの上で真賀木の指が充子のクリストリスの周縁に触れている、その微妙なうごきだけが、充子に快楽を与えている、と考えるのはすこしばかり女性を単純化しているかもしれない。
 ベリーズをダブルで3杯のんでも、その気になれば数式の計算をぴったりと出来る女が、シングル1杯で自分を酔い騙し、男の腕をかりなくては歩けない姿になるのも、決してベリーズのアルコールのせいではない。
 アルコールよりテクニックより強いものは、溶けたい、酔いたい、の意志、意志の出所はつまるところ大きく囲いこんだtころの<愛>ということになるのだろうが、なかには<愛>が邪魔でベリーズにもテクニックにも酔えない、という質の女もいるから、このあたりは一概には言えない。
 性はもともと不一致なもの、不一致に出来ている。
 不一致を言葉や態度でお互いに調整して一致させる、一致させるための動力が、つきなみな表現だが、愛情や信頼ということになる。(高樹のぶ子<百年の予言>から)


 
 ところで、刹那的と言えば、快楽用語に死というイメージを使うのは、いかにもである。・・・
 <死ぬ>という快楽用語は女性言葉である。
 どのポルノ小説を読んでも、男性は<いく>とは口に出すが<死ぬ>とは言わない。
 と、すると、死の淵にいるのは女性だけなのだろうか。より深い快楽を味わうのは女性の方なのか。
 <死ぬ>と言っても本当に死ぬのではないと解っている女性は、狂言を楽しむ才能があるのかもしれない。
 <死ぬ>と言って死なないのはずるである。女性は、ずるによって男性を引き寄せるのである。
 女はずるい。私は女性の性的有様が嫌いである。
 少し説明を加えると、男性を意識した媚態が嫌いなのである。男好みに反応するのが、我慢できないのである。
 この場合、明らかにそれと解る媚態は含まれない。
 装飾は好きである。
 私が嫌悪をもよおすのは、端的できれの良い秘密の領域の場合である。
 そうだ、私は<死ぬ>と口走って死なない女が嫌いなのだ。
 そして、多くの男性は、そういう女を好みとしているので、そこも気にくわないのである。
 <死ぬ>ことに不慮の事故めいた演技が加わっているのに気付く男性はどれ程いるだろう。
 はからずも快楽に落ちてしまったことを訴えるさりげない演技。
 この高等時術は、性のみならず端的できれの良いあらゆる世界に蔓延しつつある。・・・(山田詠美<快楽の動詞>より)


 その期におよんで単純な<男>に対し、<女>のなんと奥深いことよ!

 ─続く─

 

昭和のマロの考察(79)女と男(10)

2010-11-19 06:13:23 | 昭和のマロの考察
 多くの著名人が女と男を性的な観点から、違いについて述べている。

 男はずるがしこい。女の最初の男であろうとする。でも女はもっとするがしこい。男の最後の女であろうとする。(バーナード・ショー)


 淀君に託して書いている。

 女は厭な男だって、歯をくいしばって寝る生き方が出来るのである。
 それも手ごめ同様の出発なら、恨みで心を冷やしながら、おまえなど、という気持ちでも、可能な関係を保つことが出来る。
 そういう反抗しか出来ない男と女の関係は、恐らく現代でも受けつがれているににちがいないのだ。・・・
 秀吉はそうした人間の心の深い部分への関心とか、インテリジェンスとか、そんなものがなかったから、むしろ幸せである。
(中山あい子・作家)


 同じインテリジェンスを欠いていた田中角栄の場合は、幸せとはいかなかった。榎本三恵子との関係で致命傷を負うことになる。
 昔の女性と現代の女性との違いだろうか。あるいは男の女に対する考え方の違いなのか、比較してみると興味深い。

 
「私にだって、愛人とか、妾とか、娼婦とかいう言葉のほうが、ずっと甘く聞こえるのよ」
 どこから聞いてきたものか、ベリンダも伝説の女を真似て繰り返した。
 日陰者を賞揚しながら、妻という磐石の地位を憎み、あまつさえ、軽蔑までしてしまう態度は、英知の聖域に暮らす女たちの自負だった。
 すなわち、結婚に真実の愛はない。全てが計算され、要求され、強制されているだけである。
 そこには虚飾に満ちた形だけがあるのであり、至高の愛とて、たちまち堕落を運命づけられる。
 反対に結婚の外にあれば、全ては無償で、それゆえ惜しみない。
 女が男を愛するのは、もはや強いられた義務ではない。愛したいから、男を愛する。  与えたいから、男に与える。
 結婚の呪縛を逃れたとき、女は借り物ではない、自分の意志を持つことができるのだった。
 それは女性蔑視という、時代の精神に抗する反逆でもあった。
 大学者トマス・アクイナスいわく。
 女は実存的な存在をしない。男に規定されているか、これから規定されうるか、それだけの存在である。
 古代の鉄人アリストテレスいわく、イヴよ、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配する。(佐藤賢一<王妃の離婚>から)


 同じ聖域の中に生きる女でも、淀君とリンダと、両面がある。

 ─続く─