<日本人は議論が苦手>
司馬遼太郎も<風塵抄>の中で言っている。![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5d/d9/cf02777d2a3c3f269695dce14edfde20_s.jpg)
私は議論が苦手で、しかもうとましくおもうほうである。
たとえば、「二宮金次郎は泥棒である」というテーゼを持ちだされて、それに甲論乙駁する気にはなれない。
金次郎の家は貧しくて持山などあるはずがないのに、薪を背負って山を降りてくる。
つまり泥棒である、という意見に対し、どうこうと議論する気になれないのである。 日本人の場合、議論するより説明する。
これを説明すれば、「明治以前はどの村にも入会山という村落の共有林がありました。金次郎の場合、そこから薪を採ってきたのでしょう」ということになる。
ディベイトの場合、相手は、「証拠があるか」と突っ込んでくる。そんなものは無い。当時はみなそうだったんです、とやむなく状況論に話をもちこむ。
「いいえ、状況をきいているのではありません。金次郎の場合はどうかときいているのです」となる。
英語のスペシャリスト、松本道弘が<時事英語研究>の中でディベートについて説明している。
ディベートというものは、もともと都会的発想のコミュニケーション形式で、腹芸というのはその対極でムラ型。
西洋の歴史でもムラから始まって、「われわれは」という「・・・は」の発想で考える。これは多神教的な発想。
これがアーリア民族がギリシャに来てだんだん男性中心の文化になってくると、「・・・は」から「「・・・が」になって「私が」となってしまう。
これは古代ギリシャの基本点。ディベートを生んだロジックの原点。
「が」で考えるのは旧約聖書までいく。
神とアダムとイブは三角になっている。![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0d/7c/83f0308d3dba89319da0faaa7a8c3d07_s.jpg)
これがディベートの発祥。
AとBが闘うと第三者のCが裁く。日本では議論がケンカになるのは、神がないから。
ディベートがアーギュメントになってしまう。
また、ディベートはまず<限定する>ことから始まる。
例えばサッチャーがNHKテレビにでたときに、日本で英語のベラベラな国際人が出てきて「We are diligent」(我々日本人は勤勉です)と言ったら彼女はカチンときて怒った。![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5d/b0/1be1b9501854cbe3bff9fd43ccfc21df_s.jpg)
つまり「We are diligent.It dos'nt mean you are lazy.」と限定して言わないと通じない。
─続く─
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_oro.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5d/d9/cf02777d2a3c3f269695dce14edfde20_s.jpg)
私は議論が苦手で、しかもうとましくおもうほうである。
たとえば、「二宮金次郎は泥棒である」というテーゼを持ちだされて、それに甲論乙駁する気にはなれない。
金次郎の家は貧しくて持山などあるはずがないのに、薪を背負って山を降りてくる。
つまり泥棒である、という意見に対し、どうこうと議論する気になれないのである。 日本人の場合、議論するより説明する。
これを説明すれば、「明治以前はどの村にも入会山という村落の共有林がありました。金次郎の場合、そこから薪を採ってきたのでしょう」ということになる。
ディベイトの場合、相手は、「証拠があるか」と突っ込んでくる。そんなものは無い。当時はみなそうだったんです、とやむなく状況論に話をもちこむ。
「いいえ、状況をきいているのではありません。金次郎の場合はどうかときいているのです」となる。
英語のスペシャリスト、松本道弘が<時事英語研究>の中でディベートについて説明している。
ディベートというものは、もともと都会的発想のコミュニケーション形式で、腹芸というのはその対極でムラ型。
西洋の歴史でもムラから始まって、「われわれは」という「・・・は」の発想で考える。これは多神教的な発想。
これがアーリア民族がギリシャに来てだんだん男性中心の文化になってくると、「・・・は」から「「・・・が」になって「私が」となってしまう。
これは古代ギリシャの基本点。ディベートを生んだロジックの原点。
「が」で考えるのは旧約聖書までいく。
神とアダムとイブは三角になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0d/7c/83f0308d3dba89319da0faaa7a8c3d07_s.jpg)
これがディベートの発祥。
AとBが闘うと第三者のCが裁く。日本では議論がケンカになるのは、神がないから。
ディベートがアーギュメントになってしまう。
また、ディベートはまず<限定する>ことから始まる。
例えばサッチャーがNHKテレビにでたときに、日本で英語のベラベラな国際人が出てきて「We are diligent」(我々日本人は勤勉です)と言ったら彼女はカチンときて怒った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5d/b0/1be1b9501854cbe3bff9fd43ccfc21df_s.jpg)
つまり「We are diligent.It dos'nt mean you are lazy.」と限定して言わないと通じない。
─続く─