<男の魅力11>
<王、長嶋が太陽のもとで咲くひまわりなら、オレはひっそりと日本海で咲く月見草>
これは野村克也の言葉として有名である。
1975年、王貞治が600号ホームランを打った後、野村も600号を打った。
記念すべきインタビューのために野村は気の利いたコメントをしようと考えていた。
ここが月並みな他の選手と違うところだ。
彼は貧しい少年時代、新聞配達の途中だったのだろうか、誰も見ていない海辺に美しく咲く月見草を不思議に思ったそうだ。
その時以来胸に秘めていた思いが言葉となって現れたのだ。
ここに彼が野球選手として、また監督として成功した原点があるとぼくは思う。

彼については毀誉褒貶、好き嫌いがあると思うがぼくは好きだ。
<気の利いたことを考えようとする>、<杓子定規でない、率直な物言いで思いを表現する>という点が好きだ。
昨日、妻に促されてNHKのBS、プレミアム8<野村克也>に見入ってしまった。

魅力ある男にはエピソードがつきものだ。

選手時代、一時期彼はカーブが打てなくて悩んだ時期があった。
「ほらあ、カーブがくるぞ!」
「カーブの打てない、ノ・ム・ラ!」と野次られるほどだった。
特に好投手、稲尾和久を大の苦手としていた。
しかし、研究熱心な彼はテッド・ウイリアムズの著書からヒントを得て、投手には球種によって癖があることを知り、16ミリで研究、攻略した。

捕手として<ささやき戦術>などを使って相手打者の集中力をを殺ぐなどの心理作戦をとったこともある。
三冠王や8年連続のホームラン王など赫々たる実績を残したが、1980年、ついに選手としての引退を決意する。
そのきっかけとなったのは西武に移籍した対阪急戦、1点を追う展開の中、8回裏、1アウト満塁で彼は初めて代打を送られた。
ベンチに下がった彼は代打策の失敗を願い、結果は彼の期待通りダブルプレーに終った。
・・・ざまあ見ろ・・・と思ったそうだ。
ところが帰途、チームの勝利を願わねばいけない状況での自分の気持ちを情けいと反省、選手としての引退を決めた。

その後、解説者として活躍、その鋭さを評価したヤクルトの社長に1980年、監督を要請される。
当時のヤクルトはファミリー主義の明るいチームカラーで人気があったが、勝負に対する甘さがあり、Bクラスに低迷していた。
1990年に彼はデータを重視するID野球を掲げてチームの改革を図る。
特にドラフト2位で入団した古田敦也捕手に目をかけ、英才教育を施した。
最初「サインは何となく出している」などと言っていた彼に、勝負の分岐点を意識する配球について論理的に理解させるところから指導した。
古田はやがて守備面で大きな進歩を遂げると同時に打者としても首位打者を獲得するなど顕著な成長を見せた。
1992年にはセリーグの混戦を制して優勝した。
途中、天王山の対中日戦で、怪我、手術などで4年ぶりという荒木大輔を起用する賭けに出て成功する。
甲子園で活躍し、いざという場合の彼の試合度胸に野村は賭けたのだ。
1997年の対巨人開幕戦では、前年広島を自由契約になった小早川毅彦を起用、巨人のエース斉藤雅彦から3本のホームランを打って開幕ダッシュに成功、リーグ優勝、日本シリーズでも西武を破って三度目の日本一になった。
後、三顧の礼で迎え入れられた阪神では、伝統の壁に阻まれて失敗するという苦渋を味合うが、ノンプロのシダックスの監督を経て、再度プロ野球の楽天に監督として招聘される。
ここでも、過去本塁打王、打点王の実績を持ちながら不振にあえぎ球団を転々としていた山崎武司を獲得し起用した。
最初悩んでいた彼に「気楽にいけよ」と言った野村監督の一言で彼は再生、本塁打王、打点王まで獲得することになる。
「身勝手な自分が、チームのために働こうという気持ちになった」と山崎は言っている。

人を育てるということは、自信を育てるということだ。
人づくりは<愛情>、さりげないひと言が効くと野村は言っている。
自信を失ったり、盛りを過ぎた選手を何人も再生し、野村は再生工場と言われている。
選手を指導するとき、彼は<人間はなぜ生まれてくるのか>というところから説き起こしている。
人として生まれる。人として生きる。人として生かす。
生きるため、存在するためにどうするかを考えろ、と。

振り返ってみると、野村克也の人生は<無形の力(観察力、洞察力、判断力、決断力)>などを活用し、自らを含めて<弱者を強者に再生するための道>だった。