昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

昭和のマロの考察(122)文明(12)

2011-01-16 06:54:03 | 昭和のマロの考察
 我々は人間の叡智を信じ、次々と繰り出される科学の恩恵に浴し、その輝かしい文明に酔ってきた。
 しかし、ここへ来て何かちょっと変だぞ?このまま前へ前へと進むばかりでいいのだろうか? いわゆる<公害>
とか<耐性菌>とか目に見えない人間に対する抵抗勢力の存在を意識するようになってきた。

 立花隆氏は<文明の逆説>と題して痛烈な警告を発している。

文明は人間をとりまく環境を激変させつつある。ところが、その変化は、ヒトの適応能力を上まわっている。環境の変化とヒトの適応能力との格差、これが公害として現象している。
 文明のはじめは農耕技術の獲得だった。農業の最も原始的な形態は焼畑農業である。一度焼畑として利用した場所に草木が再び生い茂り、地力が回復するまでには、10年前後の時間を要する。
 焼畑農業が文明の性格を象徴している。文明は収奪するのをこととしてきたのだ。が、自然は有限なのである。人間はたびたびその有限性に突き当たってうろたえたが、それを文明の技術によって切り抜けることができた。もはや焼くべき原野がなくなったとき、固定した畑地に肥料をほどこすことを覚えた。自然物を利用した肥料だけで足りなくなったとき、化学肥料をつくりだした。


繊維が足りなくなれば、合成繊維を、皮革が足りなくなれば合成皮革を、木材や金属に代えてプラスチックを。我々の周囲をちょっとながめただけで、人類の生活がもはや自然物の利用だけでは、たちゆかなくなっていることがすぐにわかる。合成化学の進歩、これこそ自然の有限性を突き破る人間の知恵だと思われた。しかし、ここに大きな錯覚がある。

自然の有限性に気づき、たびたび自然の収奪に反省を加えた人間も、水と空気、こればかりはその有限性を思ってもみず、収奪を重ねつづけてきた。が、ここにきて、大気汚染、水汚染という形で、その有限性の壁に突き当たって、人類は愕然としている。しかも、この汚染の多くが自然がこれまで知らなかった化学物質によるものであることに大きな問題がある。

ヒトをはじめとする生物体は、そうした天然にない物質に対して適応力をもたない。これが、農薬による生物系の破壊、食品添加物渦、合成洗剤渦として現象している。環境破壊は局地的な問題ではない。すでにグローバル(全地球的)なっている。たとえば、気候の変動さえもたらしつつある。・・・

文明は人類の遺伝にも影響を与えている。突然変異の増大がそれだ。・・・原子力産業の放射性廃棄物などの人体への遺伝的影響についてはよく語られてきた。しかし、化学物質による突然変異の危険については、あまりに知られていない。
 薬品、殺虫剤、繊維処理剤、食品添加物などの中に無数の突然変異誘発作用のあるものがある。・・・


もう一度繰り返そう。我々人類の運命を決めるのは、我々自身だ。まだ、我々に選択の余地が残されている。しかし、間もなく、このままいけばもう引き返すことができぬ地点まで行きついてしまうだろう。