マル鉄・鉄道写真館

鉄道・バス・航空機・はたらくクルマなど、乗り物全般の歴史をご紹介しています。

国鉄 豊肥本線:キハ55

2011-07-26 00:30:00 | 国鉄ローカル線
国鉄 豊肥本線:キハ55


豊肥本線は、熊本~大分を結ぶ現存の路線です。
観光地である阿蘇山を擁した観光路線といえるでしょう。
阿蘇の外輪山が非常に険しく、途中の立野ではスイッチバックが見られます。



昭和54年3月26日 豊肥本線 立野駅にて キハ55138

中学の卒業旅行で九州に行ったとき、高千穂線から高森線にバスで抜けて、豊肥本線の立野駅で撮った写真です。

当時もキハ55系の存在は知っておりましたが、首都圏では既に常磐線くらいでしか見ることが出来なくなっていたと思います。
高校生時代に上野駅でアルバイトをしていたとき、臨時にの「ときわ」「奥久慈」の中間に連結されていたのを見たことがあります。
しかし、中学時代は水郡線のようなローカル線には行ったことがなかったので、初めて間近で見るキハ55に感動した記憶があります。

にほんブログ村 鉄道ブログ JR(・国鉄)へ
にほんブログ村

国鉄163系「サロ163」

2011-07-25 00:30:00 | 国鉄・JR急行列車
国鉄163系「サロ163」

昨日アップいたしました「サロ163」について、過去にまとめた記事からご紹介いたします。


交直流型で言うところ、451系・471系(MT46)が453系・473系(MT54)に出力アップされ、さらに455系・475系により勾配抑速ブレーキブレーキを設けて形式が発展しています。
これになぞれば、母体となる新性能直流急行形である153系(MT46)が出力アップにより163系(MT54)となり、さらに勾配抑速ブレーキブレーキを搭載して165系と発展していくことはお分かりいただけると思います。

そしてその計画は実際のものとなり、当時、非冷房の1等車(グリーン車)であったサロ152の冷房化を目的として、サロ163が新製されることになります。交直流型と153系の時点で時代差があるため、TR59形→TR69形と足回りに違いがあります。

しかし、既に勾配抑速ブレーキブレーキを搭載した165系も計画されている段階において平坦線区用の出力アップ車を用意することについては、車両保守や運用管理、さらに広域配転における制約を招くことになるため、形式を165系に絞って増備されることになりました。

このような経緯により、163系は、サロ163が7両製造されたのみに留まり、電動車が存在しないという極めて異質な幻の形式となったわけです。



昭和54年頃 東京駅にて サロ163-1 急行「東海」

サロ163は、昭和39年に製造され、宮原電車区に配置となります。153系のサロ152を置き換え、153系と共に使用されています。
昭和45年には全車が大垣に転属となり、やはり153系と共に急行「東海」などの優等列車に使用されました。
その後、サロ163-7は113系化によりサロ112-51となっています。

本来ならば165系自体も誕生している時代ですが、サロ163には勾配抑速ブレーキ関係の引通しなどが設備されていないことから、もっぱら153系としか運用できなかった訳です。改造工事を行えば、サロ165としても活用できたのではないかと思われますが、何ら手を加えられることも無く、昭和58年までに全車が廃車されています。

写真は、東京駅に停車中のサロ163トップナンバーを見つけ、喜び勇んで撮ったものです。
当時はまだ詳しい知識は持っていなかったのですが、「サロ163」という車両が存在していることは知っていましたし、163系という形式が空きになっていることも知っていましたので、非常に特殊な存在であったことは自覚していましたね。

同時に計画された165系は東北・上越新幹線の開業後までも残るものが存在しましたが、同じ時代に誕生の経緯を持ちながらたった20年弱で生涯を終えてしまった。163系は、幻かつ不運な形式だった思います。

にほんブログ村 鉄道ブログ JR(・国鉄)へ
にほんブログ村

153系:急行「東海」(サハ164・サロ163)

2011-07-24 00:30:00 | 国鉄・JR急行列車
153系:急行「東海」(サハ164・サロ163)


「東海」は、東京~静岡・名古屋地区を結んでいた急行列車です。
元々は準急列車であり、その後、戦後初となる長距離用電車80系電車を導入した列車としても有名です。
東海道新幹線開業後には、やはり徐々にその勢力を縮小せざる得ませんでしたが、それでも新幹線の停車しない中間都市への利便性もあってか、比較的に遅くまで存続しました。



昭和52年頃 東京駅にて 

写真が劣化しているため、画像が悪くてスミマセン。隅田川~品川間の荷物列車を牽引しているEF1530と並ぶ急行「東海」です。
153系が当たり前の時代であり、165系といえばサロだけが使用されていました。



昭和54年3月 東京駅にて 急行「東海」

列車番号札が321になっていますが、これは直し忘れですね。朝の5時前半の訳がありません。夕方発の急行「東海」です。
153系「東海」も終盤に近づき、サロ以外にも中間車に165系が連結されてくるようになりました。



昭和54年頃 東京駅にて サロ163-1 急行「東海」

珍形式である163系・・・163系って何?
別立てでご紹介したいと思います。



昭和54年3月 東京駅にて サハ164-2

急行「東海」に連結された、165系の中でも随一の珍車です。
これも別立てでご紹介したいと思います。

153系~165系時代に至るまで、途中の国府津までは急行「ごてんば」を併結していました。
さらに時代が経ち、165系が老朽化してくるとこれを淘汰し、特急へと格上げされることになります。


にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道写真へ
にほんブログ村

国鉄 高千穂線:キハ10系・20系

2011-07-23 00:30:00 | 国鉄ローカル線
国鉄 高千穂線:キハ10系・20系


高千穂線は、日豊本線延岡駅から内陸に向かって高千穂峡のある高千穂駅までを結ぶローカル線です。
開業当初は「日之影線」と呼ばれており、高千穂駅までの延伸開業時に「高千穂線」と改称されています。
地図をご覧いただくとお判りいただけると思いますが、最終的には熊本側から来る高森線と接合し、延岡~立野(豊肥本線)を直通する計画でした。私は、高千穂から高森までバスで抜けたことがあるのですが、阿蘇の外輪山でしょうか、非常に勾配のきつい道路を「いろは坂」の如く延々カーブを続けながら相当な時間を掛けて降りていった記憶があります。このような人も住んでいないような地形のところに鉄道を通しても、経営の負担になることは目に見えています。要は無理のある計画であったということですね。



昭和54年3月25日 キハ20系2連との交換風景

どこの駅かは覚えていませんが、途中駅で交換がありました。赤字ローカル線ではありますが、結構乗客は乗っていましたね。
この頃「首都圏色」は未だ居なかった時代で、気動車はすべて標準色でした。写真はキハ20の2連ですが、初期車のバス窓車と後期の2段窓車で組成されており、非常に興味深い写真だと思います。



昭和54年3月25日 3両編成の普通列車

私が延岡~高千穂間で乗車した3両編成の列車で、キハ10+キハ20+キハ10でした。キハ10系に乗ったのは初めてで、通路側に肘掛けが無かったのには驚きました。寝ていてコケたら通路に転がってしまいます。でも、戦前の電車や客車でも肘掛けがなかった車両って意外と多いんですね。
標準色ばかりで大変好感が持てる時代でした。

折角キハ10系や20系がゴロゴロ走っているのに、興味が特急列車に行ってしまっていて、ちゃんとした写真は撮っていませんでした。キハ10なんて他には写真を持っていませんから、自分的に非常に貴重な1コマなんです。

平成元年に第3セクター化され、なんとか存続してきた「高千穂線」ではありましたが、不幸にも平成14年の台風により鉄橋が流失、そして全面運休となり、復旧に必要な莫大な経費を考慮した結果、残念ながら廃止となってしまいました。

にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道写真へ
にほんブログ村

583系:寝台特急「なは」

2011-07-22 00:30:00 | 国鉄・JR特急列車
583系:寝台特急「なは」


特急「なは」は、昭和43年10月、それまで「かもめ」として運転されていた新大阪~西鹿児島間のキハ80系による気動車特急を分離独立して誕生しました。誕生時は新大阪~宮崎を結ぶ気動車特急「日向」を併結しています。
昭和48年10月の改正で鹿児島本線電化にやや遅れて電車特急となり、「日向」と分離運転され、昭和50年3月のダイヤ改正(新幹線博多開業)まで昼行電車特急として九州連絡の役目を担いました。
同改正により山陽の昼行特急が全廃になり、廃止になると思われた「なは」ですが、その名称を与えられた経緯から存続することになり、改正前まで京都~西鹿児島を結んでいた581・583系寝台特急「きりしま」のスジを引き継ぐことになり、ここに新たな電車寝台特急「なは」が誕生することになります。

誕生当初は、583系独特の黄緑色で「なは」の文字マークが使用されていましたが、昭和53年10月のダイヤ改正から他の電車特急と同様にイラストマークが採用され、その後の客車寝台特急化、機関車のヘッドマーク復活時におけるマークデザインの礎となりました。



昭和55年8月 京都駅にて クハネ583を使用した寝台電車特急「なは」



583系の行先表示

昭和55年ですので既にヘッドマークはイラスト化されたものです。
横サボは関西特有の発駅と着駅を一緒に表示するタイプで、東日本の着駅のみの表示とは趣が異なります。

私的には「きりしま」という名前の方が好きだったので、「なは」に愛称が決まった時点で『なにも乗っ取らなくても良いのに・・・』なんて思ったものでした。
高校2年のとき、EH10やキハ181系「やくも」の撤退を知ったときに強引に撮影を挙行し、夜行乗り継ぎがてら関西の列車も出来る限り撮影してきました。この写真は、そのときの1コマです。

その後、客車化を経て「あかつき」との併結。なんとか生き永らえた「なは」ですが、平成19年3月の改正を以ってとうとう廃止となってしまいました。

沖縄の日本復帰の願いを込めて生き長らえてきた特急「なは」。そんな願いをもってしても廃止の運命となってしまった今の時代。切ない、寂しい以外の何モノでもありません。


にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道写真へ
にほんブログ村