マル鉄・鉄道写真館

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郵便・荷物合造車:クモユニ143(身延色・長岡運転所時代)

2018-12-15 22:36:00 | 荷物列車、荷物車
郵便・荷物合造車:クモユニ143身延色・長岡運転所時代)


国鉄型新性能電車で初めて1M方式の電動車が誕生したのは昭和42年と意外に古く、しかしその車両はクモユ141で郵政省が所有する私有電車でした。
それからくれること10年、旧型荷物車の代替として誕生したクモニ143が国鉄新性能車として初めての営業車となります。

昭和56年、全国的な戦前型旧型電車と淘汰が最終期を迎え、それまでの輸送力を吊掛車に頼っていた飯田線や身延線にも新性能の荷物車を導入する必要に迫られましたが、143系では荷物車も郵便車も専用の仕様となっていたため、2両連結では明らかに過剰な輸送力であり、さらに有効長の短いローカル線への導入は考えられなかったことと思われます。

そこで、いずれも1M方式の郵便・荷物合造車が新形式で誕生することとなり、飯田線にはクモユニ147、身延線にはクモユニ143が導入されました。
飯田線のクモユニ147は車体は新造としながらも足回りには101系の機器を流用したのに対し、身延線のクモユニ143は完全な新製車となっています。
それまでのクモユ・クモユニの新製車は湘南色のみとなっていましたが、身延線に導入されたクモユニ143は、同じく新性能化された115系(2600番代含む)と同じく専用の身延カラー(ワインレッド)という初めてのカラーリングで異彩を放っていました。



昭和61年10月頃 蕨駅付近にて クモニ143+クモユニ143身延色 上越線荷物電車

新性能化で活躍を始めたばかりのクモユニ143でしたが、身延線における郵便荷物輸送が廃止となり、わずか4年弱のうちにあっさりと身延線から撤退することになります。
しかし、車齢が浅かったクモユニ143は4両とも長岡運転所に転属し、高崎線・上越線の荷物列車に使用されることになりました。
4両のうちの3両は早速湘南色に塗り替えられてしまったようですが、1両だけ身延線カラーが存続し、1回だけですが地元でキャッチすることが出来ました。少しブレてしまっていますが、ナンバーはクモユニ143-1と読み取ることができます。

その後も狙おうと思ったのですが、わずか1か月ほどで郵便輸送・荷物輸送のいずれもが全国的に廃止となってしまい、地元で見ることは無くなってしまいました。

わずか1年でお役御免となった長岡のクモユニ143ですが、荷物輸送の全廃後も残った房総地区の新聞輸送に活用されることになります。しばらくはその姿は見られたようですが、平成8年のダイヤ改正で運用の合理化が図られることになり、クモユニ143は長野・小山・東京総合などに散っていきました。

写真のクモユニ143-1は現在も長野において活躍を続けているのは喜ばしい限りです。
惜しむらくは、私が最後に訪れた身延線では115系に置き換えが進んでいながらもクモハユニ44が活躍を続けており、誕生直後の姿を捉えられなかったことでしょうか。



国鉄50系客車:スユニ50(山陰本線)

2018-11-17 08:08:00 | 荷物列車、荷物車
国鉄50系客車:スユニ50(山陰本線)


国鉄50系に属する郵便・荷物合造客車であるスユニ50。
老朽化した旧型合造客車のスユニ60などの置換えを目的とし、昭和53~58年に掛けて80両が製造されました。本州用の0番代と北海道用の500番代があり、0番代は電気暖房対応の2000番代としています。

登場時、殆どが地方幹線のローカル運用などに使用されていたため、地元で見ることはまずありませんでした。地方での客車列車の撮影などにも良く出掛けましたが、本線運用では旧型荷物車も現役であり、マニ50やオユなどの使用が多く、合造車であるスユニ50は滅多にお目に掛かることはありませんでした。



平成59年2月12日 出雲市駅?にて

宿が見つからずに益田駅で駅寝し、始発列車で出雲市駅へ。その際にホームに停車していた上り普通客車列車を撮影したものと記憶しています。
早朝の山陰はことのほか寒く、DD51に牽引される旧型客車4両と、最後部に連結されたスユニ50からは蒸気暖房のスチームが立ち上っていました。

当時は珍しい光景でもなんでもなかったのですが、東日本では殆どが電気暖房対応となっており、このようなスチームを吐き出す姿をなかなか見ることがありませんので、思わずシャッターを切りました。
そのような偶然で記録されたスユニ50形客車で、これ以外には形式的に撮影したものはありません。

この約2年後の昭和61年、荷物列車が全廃となったためにこれら荷物客車はお役御免となり、最短ではわずか3年で生涯を終えた車両がいたことになります。



クモユニ147:飯田線

2018-08-14 01:24:00 | 荷物列車、荷物車
クモユニ147:飯田線


クモユニ147は、飯田線の新性能化に際して昭和58年に製造された郵便・荷物車です。
車体はこれより少し前に誕生した身延線用のクモユニ143に準じていますが、101系からの流用(改造)によって誕生したため、別形式となっています。




平成30年7月下旬にKATOから発売されたクモユニ147です。
ここでは模型写真を使いたくないのですが、現役時代の写真が撮れていないために使います。
塗装は京浜東北線と同じ青22号に灰色9号の帯が入っており、同時に誕生した119系と同じ出で立ちです。帯も119系と同様に塗装ではなく、樹脂テープによるものです。印象としては唐津線の103系1500番代に似ています。




パンタグラフは一基のみで、辰野方に向いています。荷物車の連結が豊橋方のため、119系との併結では前パンにならなかったようです。



昭和58年6月28日 飯田線 田切~伊那福岡間にて

列車が小さいので非常に判り難いですが、クモユニ147を先頭としたクモハ119+クモハ119+クハ118の4連です。
119系の投入時にはまだ姿を見なかったように思いますので、戦前型のクモニやクハユニとの交代時、つまり119系導入よりもやや遅れて運用に入ったと思われます。

そんなタイミングもあってか、嫌々ながらも撮影していた119系と比較し、現役のクモユニ147を捉えていたのはたったこの1枚だけでした。

昭和60年に飯田線内の郵便・荷物輸送が廃止されてしまったため、当初の目的を果たしたのはたった2年くらいとなってしまったようです。
その後、大垣区に転出して東海道線などの荷物輸送に当たりましたが、こちらもたった1年で国鉄における郵便・荷物輸送の全面廃止によって役目が無くなってしまいます。
当時フリークエンシーによる短編成化が全国的に行われており、1M方式の利点を活かしたクモハ123へと用途を変え、活躍することになります。



EF641005牽引:荷物列車(東北本線)

2017-01-21 02:37:00 | 荷物列車、荷物車
EF641005牽引:荷物列車(東北本線)


地元を走る東北本線の荷物列車と言えば、EF58牽引のものしか思い浮かびません。
私が写真を撮り始めた頃は、資料によるとEF56がまだ残っていたようですし、EF57が牽引していた可能性もあるのですが、(小学生の私にとって)撮影に適した時間に走っていなかったのか、いずれも見た記憶がありません。

EF58シリーズでは、今後のアップも含めて荷物列車の牽引シーンをご紹介することがいくつかあると思いますが、いずれも宇都宮運転所または高崎第二機関区所属の列車のみとなります。

しかし、EF58が全廃になると、東北本線に残った荷物列車について、EG暖房装置を搭載している当時新鋭のEF641000番代が進出した記憶があります。確か1枚だけ撮った記憶があったな・・・ということで、アルバムの中から写真を見つけました。



昭和61年10月9日 蓮田~東大宮間にて EF641005牽引 上り荷物列車

現物はカラープリントですが、スキャンした際の発色が非常に悪いため、モノクロにしてしまいました。ナンバーも見づらいのですが、画像加工して確認したところ、1005号機であることが読み取れました。

荷物列車の最末期で、この写真を撮って直ぐくらいに廃止になってしまったと思います。
鉄道郵便も既に廃止されており、編成中に郵便車を見ることができません。荷物車も旧型車は見られず、マニ50、スニ40、スニ41、マニ44のみとなっています。

記憶は薄いですが、EF641000番代が東北本線大宮以北を担当した最初の例であり、しかもEF58と交代してまもなく荷物列車も全廃となってしまったため、荷物列車史上においても大変希少な記録だと思われます。




国鉄旧型荷物車:マニ372020

2016-08-13 23:13:00 | 荷物列車、荷物車
国鉄旧型荷物車:マニ372020


親記事で既にご紹介済みですが、こちらでも記録しておきます。



昭和60年7月7日 東大宮操車場にて

団体企画列車(ミステリー列車)に乗り、東大宮操車場での撮影会の際に撮影したものです。

マニ36をパレット積載用に改良した車両で、形式車号はマニ372020と読み取れます。

荷物輸送も廃止となり、荷物車を併結した夜行急行も新幹線の開業により次々と消滅。既に運用から離脱し、多分、廃車待ちになっていた車両だと思います。
マニ36等の荷物車は殆どが茶色塗装でしたが、マニ37は青色塗装だったために大変目立つ存在でした。地元の夜行列車でも急行「越前」に常連結されていました。
この辺り、定期的には急行「越前」で見ることが出来た車両です。急行「津軽」にも連結されていたという記録を良く目にしますが、何故か私が撮影した「津軽」はマニ36ばかりでした。ただ、モノクロ写真で区別が付かないものもありますが・・・

この時代はあまり個々の車両に着目して記録することもなかったので、形式写真風に撮影したマニ37はこの1枚だけでした。

※急行越前様より、同車は尾久客車区所属で、急行「津軽」に使用されていたものとのご教示を頂いております。