マル鉄・鉄道写真館

鉄道・バス・航空機・はたらくクルマなど、乗り物全般の歴史をご紹介しています。

EF58牽引旧型客車:臨時急行「ざおう」

2020-12-31 04:51:00 | 国鉄・JR急行列車
EF58牽引旧型客車:臨時急行「ざおう」


2020年も間もなく終わります。
オリンピックのある筈だった特別な記念イヤーも、新型コロナウイルスという見えない敵に翻弄されたまま終わろうとしています。


年末ともなれば、毎年東京駅からの帰省客を対象とした中継が入ります。もちろん、もう30年も繰り返される帰省客でごった返す駅の光景は、新幹線ホームからです。

しかし、東北・上越新幹線が開業する前は、上野駅を出発する急行列車がメインとなっていました。ただ長距離急行列車に乗るだけの席を取るため、早朝からホームに陣取るなんて言うのが風物詩でした。上野駅ではこの待ち客を捌ききれず、品川駅まで使っていた時代もありました。

昭和50年代になると、昼間の特急列車が大増発され、帰省客も特急志向へとシフトしていきますが、夜行急行の大混雑は新幹線開業直前まで続いていました。



昭和49年末頃? EF58牽引 臨時急行「ざおう」

青+茶色を混ぜた旧型客車で編成された急行列車。写真の裏には「ざおう」とメモが書いてありました。
昭和40年代後半、万博輸送の終了及び追加増備で12系客車も臨時列車に回ることが増えてきましたが、上信越方面の臨時急行では良く見られたものの、東北急行では予備車として待機している旧型客車や気動車が総動員されていました。そのため、気動車も非冷房が当たり前、旧型客車では普段では使用することのない未更新の茶色い客車も見られました。

このようなグレードの極めて低い車両であっても、自由席の多い急行列車で乗り換えなしに低額で故郷へ帰ることができるというだけでも利用価値があった時代なのです。


この写真、地元の西川口~蕨間の線路沿いです。
線路沿いには柵が無く、水路の埋め立て工事に備えた有刺鉄線が張られ始めた頃のようです。
突き当りは住友セメントの工場敷地となっており、この写真の真正面は線路が3本、左横に工場本体が建っていました。もちろん、線路に遮られているために道路は突き当りを左折のみ。県道まで大きく迂回しないと蕨駅方向に行くことはできませんでした。
道路も下水道整備前で、まだ未舗装ですね。




令和2年現在での写真です。
高い線路柵が連なっており、昭和40年代の鉄道に対する安全対策とは全く意識が違うことが見て取れるようにわかります。
セメント工場は貨物合理化と共に撤退となり、巨大なマンションがいくつも経ちました。さらに、線路沿いに蕨駅方向まで続いていた水路も埋め立てられ、一方通行の道路も整備されました。

この風景はここ数年で変わったわけではなく、平成最初の頃から30年ほどはこんな感じになっていたと思います。昭和時代とのあまりに急な変動に、記憶も追いついていません。
鉄道写真としては余りにも不鮮明な記録ですが、地元の風景として忘れられない1枚と記憶と共に残っています。


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上野駅発 急行列車の列車番号

2020-11-07 02:17:00 | 国鉄・JR急行列車
上野駅発 急行列車の列車番号


昨日のことですが、お友達のしなのさかいさんと東北急行の列車番号が話題となりました。
このブログでは写真がメインですので、あまり列車番号に触れたことが無いのですが、写真から列車名を特定する際、特に電車列車や気動車列車(特急形を除く)では列車番号が掲げられていることから、重要なヒントになることが多々あります。

地元でむかし何気に撮っていた列車名を特定するのに非常に役に立ったことから、上野発の列車番号について簡単にまとめておきたいと思います。


ちなみに、特急列車では1~2ケタや方面別に4ケタとするケースがあり、急行列車では3ケタまたは4ケタが一般的。普通列車は3ケタが多く、列車の本数が多い路線や、途中止まりだと4ケタだったりするケースがあるようです。

これに、電車列車にはM、気動車列車にはDが付記され、客車列車の場合は数字のみとなります。


では、上野駅発の急行列車について読み解いてみましょう。


1~2ケタは列車名ごとに表記されますので、3ケタ目を見てみましょう。
ボリューム抑止のため、下り列車での表現といたします。常磐線は別方面として今回は除きます。
※交通公社時刻表1975年7月号より抜粋。


×1××  東北本線 「いわて」1×× 「まつしま」「あづま」11××
     「いいで」「八甲田」「新星」など

×2××  磐越西線方面 「ばんだい」※別記

×3××  信越本線 「信州」3×× 「妙高」×3××

×4××  奥羽本線方面 「ざおう」「おが」「津軽」「出羽」など 

×5××  東北本線~日光線・両毛線方面 「なすの」「日光」「わたらせ」

×6××  上信越~北陸方面 「軽井沢」「よねやま」「越前」「能登

×7××  上越線方面 「佐渡

×8××  上越・羽越方面 「天の川」「鳥海」 ※「尾瀬」下りのみ

×9××  高崎線~両毛線・吾妻線方面 「ゆけむり」「草津」あかぎ」など
                    ※「尾瀬」上りのみ


概ねこのような感じで、季節列車は6000番台、臨時列車は8~9000番台が4桁目に付された列車番号になります。

ただし、時刻表を見ると例外が少なからず存在しているようです。臨時列車はメインのスジの番号が優先され、日によって方向が違うケース(臨時「ざおう」→臨時「まつしま」では400番台を付番)が見られました。

そして、非常に厄介なのが急行「ばんだい」です。

下り列車ですと、「ばんだい」の1号は郡山から4101M、2号は7201M、3号は4103M、4号は4209M、5号は7211M、6号は4215Mとなっていました。
なぜか1号と3号が100番台になっています。実はこの2つの列車には共通点があって、併結相手が「まつしま」ではなく「いわて」であるということです。ただし、なぜこのケースだけ100番台を名乗っているのか?というところまでは判りませんでした。

ちなみに、この時代の「いわて」は3往復が設定されており、上りの「いわて」はすべて単独で、「ばんだい」とは併結がなかったようです。そのためか、上り「ばんだい」はすべて200番台の番号が設定されていました。


最近のNゲージでは、列車番号の表示ができるものが出現しているようで。
表示の設定に参考になればと思います。
まあ、時刻表を見れば分かるんですけどね。


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475系:急行「つくし」

2020-01-13 01:21:00 | 国鉄・JR急行列車
475系:急行「つくし」


山陽新幹線が博多まで開業する前、関西~九州間には夜行列車を中心にまだまだ急行列車が走っていました。
東海道新幹線が開業する前に東京~九州を結んでいた夜行急行列車は、殆どが新大阪~九州間に運転区間を縮小してしまいましたが、山陽新幹線岡山開業後も大阪発着の夜行列車はそのまま存続しました。しかし、昼行急行列車は岡山発着のみが存続し、京都や大阪発着の急行は山陰方面や宇野行の「鷲羽」の一部を残して廃止になってしまいます。

そんな中、九州行きの昼行急行列車として残ったのが急行「つくし」でした。

東京発着であった急行「筑紫」は、東海道新幹線の開業と同時に大阪~博多間を結ぶ「つくし」となり、客車急行として設定されます。
40・3改正時には2往復体制となり、475系電車による運転に改められます。さらに43・10改正時において、1往復が夜行列車化されています。特に、昼行電車急行の1往復については赤穂線経由となったのも特筆されます。



昭和49年8月 大阪駅にて 475系 急行「つくし1号」

小学生の時、フィルムに限りがあるため、撮りたい列車を考えて大阪へ行きました。
その中で、何故かこの急行「つくし」の名前が気にってしまい、実際にカメラに収めることができました。しかし、被写体は遠いわ、手ブレして列車番号すら判別できないわ、散々たる写真で終ってしまいました。

特に残念だったのは、既にヘッドマークを装着しなくなっていたことです。ヘッドマークが付いている急行「つくし」が撮りたかったな~、と思い出してしまう1枚です。

そんな思い出も、新幹線博多開業により急行「つくし」が廃止されたことにより、遠い彼方へと消えていきました。

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153系:急行「比叡」

2019-10-14 18:24:00 | 国鉄・JR急行列車
153系急行「比叡」


東海道本線の名古屋~大阪を結んでいた急行「比叡」は、昭和32年に同区間に設定された80系電車による準急列車に端を発する、由緒ある列車でした。

設定当初は名称を持たなかったようですが、直ぐに「比叡」という名称が与えられ、翌昭和33年には新製の153系電車が導入となり、東海道新幹線の開業前までは最大で8往復も設定されていたそうです。

東海道新幹線の開業及び増発により4往復体制へと削減、昭和41年には準急列車から急行列車へと格上げされます。当時はサハシも連結された豪華編成だったようですが、運転時間が短いために利用者が少なかったようで、昭和47年3月のダイヤ改正で営業が休止され、運転本数も2往復へと縮小してしまいます。※ほかに臨時列車の設定がありました。



昭和55年8月 神足~山崎間にて 急行「比叡1号」

153系8連で大阪へ向かう急行「比叡1号」。
当時はヘッドマークのない急行列車などに興味はありませんでしたが、中間に新快速色のクハ153低窓が連結されていたために慌てて後部から撮影したようです。
ちょうど新快速の117系化が完了した頃で、状態の良い新快速色の153系は大垣電車区へと異動したため、東海道本線の普通列車修学旅行列車の急行「こまどり」などにも連結されていました。
8連の中間には自由席グリーン車が連結されており、こちらのみサロ165となっていました。



昭和55年8月 大阪駅にて 急行「比叡2号」(再掲)

1枚目の写真を撮影後、大阪駅に移動した際に再び撮影できました。
とは言っても特急「雷鳥」を撮影したものであり、並び写真として偶然に写っていたものです。
「比叡1号」と同じ編成の折り返しのようで、中間に新快速色のクハ153系が連結されていました。
詳細なメモは残していないのですが、当時の時刻表から、急行「比叡2号」と特急「雷鳥17号」の並びのようです。


この写真を撮影した2か月後の55・10改正で1往復に削減され、さらに59・2改正でとうとう廃止になってしまいます。
153系の全廃に伴い、165系化されたのは東京口の急行「東海」と同様で、Wikipediaには165系化された末期の急行「比叡」が掲載されています。

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ED7712牽引 12系客車:臨時急行「ばんだい」

2019-06-29 22:49:00 | 国鉄・JR急行列車
ED7712牽引 12系客車:臨時急行「ばんだい」


磐越西線の電化区間用電気機関車として導入されたED77形交流電気機関車。

量産型15両が誕生しましたが、貨物列車の削減や、東北新幹線開業に伴う余剰急行形電車の導入などもあって、約半数の7両のみがJRに継承されました。
平成5年、路盤強化によってED75の入線が可能となったため、全てのED77形機関車が運用を終えています。

昭和57年に東北新幹線が大宮暫定開業、昭和60年には上野までの延伸を達成することになり、東北本線の殆どの急行列車が廃止されることとなりますが、多客期にはまだ少数ながら臨時急行が運転されており、上野口においても「ざおう」「ばんだい」の設定がありました。

国鉄の分割民営化直後ですが、磐越西線への撮影において、ED77牽引の臨時急行を撮影したものがありました。



昭和62年4月5日 更科(信~)翁島間にて ED7712牽引 臨時急行「ばんだい」

国鉄時代に1度だけ訪れたことのある磐越西線の電化区間ですが、この時は2度目の訪問であり、既に半減した後でした。試作車の901号機も既に廃車になっていたのが残念です。

当時は12系急行など興味の対象外でしたが、ED77の活躍も先が見えており、今となっては貴重な記録となってしまいました。

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