マル鉄・鉄道写真館

鉄道・バス・航空機・はたらくクルマなど、乗り物全般の歴史をご紹介しています。

115系:身延線 ワインレッド色

2012-06-30 00:30:00 | 国鉄・JR普通列車
115系:身延線 ワインレッド色


昭和56年、旧型国電にそろそろ全廃の足音が迫ってきた頃、先行で廃車となったサハ45を含む編成に変わって登場した、身延線専用の115系が走り始めました。
この時点ではまだ2編成くらいしか運用に就いていなかったようで、撮影中もあまり見ることはありませんでしたし、元々新型車なんて撮る気も無かったのですが、1枚だけリバーサルのコマがありました。



昭和56年7月2日 身延線 鰍沢口~落居間にて

甲府を基点とする身延線らしく、車体はワインレッドを身にまとい、白帯は富士山の雪をイメージしたものでしょうか、山梨・静岡それぞれの地域を反映したカラーとなっています。

導入当初は クモハ+モハ+クハ+クハ で、クハは背中合わせに連結するという珍しい組成が組まれました。これは、無人駅の多い身延線で車掌が集改札をしやすいように、編成中間に乗務員室を設ける措置だったと聞いています。その後、全国的な短編成化に伴うクハ捻出のため、中間のクハが抜かれて3両編成化されてしまいました。

モハ114はパンタつきの車両ですが、トンネル断面の極端に低い同線を走らせるため、折り畳み高の低いパンタグラフを採用するとともに、パンタ部だけ少し低くした2600番代という新しい区分番代が発生しています。外観からは殆ど判らないんですが。

同時に身延線専用のクモユニ143のワインレッドカラーが導入され、身延線で活躍するとともに、荷物扱い終了後は首都圏にも顔を見せ人気を博しました。これに比べると、115系のワインレッドカラーは比較的短い期間で標準化され、地味なうちに消滅してしまいました。

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身延線:クハ47

2012-06-28 00:30:00 | 旧型国電
身延線:クハ47


クハ47形は、戦前を代表する近郊型電車で、2扉クロスシートを設備した車両です。2扉間に小窓がズラリと並ぶ壮観さが私好みです。

クハ47は大きく分けると3つのグループがあります。
1つは、モハ32系制御車として誕生したタイプ。クハ47自体は20m車両なんですが、相棒となる電動車はモハ32(後のクモハ14)で17mの車両なんですね。このクハ47が20m級電車の始祖となります。この部類が0番代となっています。
同時に製造されたサロ45、サハ48も勿論20m級です。電動車であるモハ32だけが17mであったのは、モーターを積んだ分、車体重量が重く、剛性に影響があったため(つまり、車体が重さでそってしまう)と言われています。
2つ目は、モハ32系サハ48に運転台取付改造を施した50番代。製造の経緯は0番代と同様です。
3つ目は、モハ42系20m車を相方とする貫通型で、誕生当初はクハ58を名乗っていたタイプ。その後100番代となっていました。
※レアなところだと、17m車の事故車両の台枠を20mに延長の上に2扉の新製車体を乗せたクハ47011というのがいました。残念ながら、私は実物を見たことはありません。

今回は私が撮影したクハ47のうち、身延線で撮影したものをご紹介いたします。



昭和56年8月21日 身延線 西富士宮駅構内にて クハ47003

こちらは基本番代の003。小窓がズラリと並ぶ壮観さ、たまらんです。正面の雨どいは改造されてカマボコ型になっていますが、直線のままの原形のものが数両居たようです。残念ながら写真には残っていなかったようです。



昭和56年7月23日 身延線 鰍沢口~落居間にて クハ47(番号不明)

こちらは番号不明ですが、基本番代車です。上の写真は正面窓が全部木製の桟のままですが、こちらの車両は3つともHゴム化されているので、相当印象が変わります。この辺りは好みの問題ですが・・・。それにしてもこのリベットの数はすごいですね。何千個付いているのでしょうか?



昭和56年8月21日 身延線 富士駅にて クハ47051

こちらは中間付随車サハ48を改造した50番代の051。全く同じような運転台を取り付けたので、一見して基本番代との区別は難しいです。正面から見ると、新設運転台にはリベットがありませんので、比較的簡単に識別できます。こんなところにも時代の技術の差が現れているんですね。

身延線にはモハ42系の100番代も居たのですが、どうも写真が見つかりません。個人的は、短足なイメージのある32系より、正面に貫通路の付いた100番代の方が好みです。

身延線のクハ47は、飯田線の同形式よりもバリエーションも車両数自体も多く、旧車研究では恰好な路線だったと思うのですが、私が初めて訪れたときには既に115系のワインレッド車も運用が始まっており、どうも撮りきれなかったようですね。
何といっても圧巻は、2扉間オールロングシートのクハ47ではないでしょうか。私はあまり好きにはなれなかったですけど(笑)。

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西武鉄道 E851 さよなら運転

2012-06-26 00:30:00 | 私鉄(大手)
西武鉄道 E851 さよなら運転


西武鉄道に在籍した、私鉄最大の電気機関車E851。
初めて見たのは中学生のオリエンテーリングの時でしたが、その時以来、好きな電気機関車でした。
しかし、昭和の時代は国鉄の写真を撮るだけでも精一杯。モタモタしている間に貨物輸送は急速に減退し、比較的新しい機関車であったE851もまさかの引退となってしまいました。

結婚前、西武系の社員となった同級生や、その先輩、さらにそのお友達との付き合いが濃く、最後のE851を撮りに行く機会がありました。

※撮影は、全て平成8年5月26日です。



西武秩父線 東吾野~吾野間にて



西武秩父線 吾野駅発車

E851の廃止にあたり、貨物機であった同機に最後の花道として、JRから12系客車を借り入れという大胆な企画。私の古くからの友人でもある西武鉄道の社員でテツ分の強い方たちが企画したようです。

まだ私たち夫婦に子供ができる前で、女房と2人して出掛けました。何故かこの時は川越線~八高線経由で現地入りしています。
始発から見届けてはいなかったので、E851が重連で12系客車を牽く姿に興奮したものです。



横瀬駅構内にて

横瀬駅の構内は、貨物ヤードを利用した、さながら西武鉄道博物館のようになっており、かつて活躍した輸入払い下げ古典電機たちが展示されています。
この広い会場では、主役となるE851+12系客車が展示され、誰にも邪魔されずにキレイに撮れるように配慮がなされていました。
往路はヘッドマーク無しでしたが、展示と復路は「さよならE851」のヘッドマークが掲出されました。
横瀬駅には旧塗装の101系も当たり前のように停まっていますが、今となっては懐かしい光景です。



横瀬駅構内にて

E33+E34とともに整備線に並ぶシーン。良く覚えていませんが、E851形の4両全機が集結していたと思いました。
悲しいことに、E851形は正面にナンバーが無いので、どれがどの番号か分らないのが泣き所です。



西吾野~吾野?

撮影場所の記録が無いのですが、この方向のカーブに該当する場所がこの区間しかないようです。
復路は前述のとおりヘッドマークが装着されており「最後」の行路であることを強調しているようです。
撮影場所が見つからなくて、しかも日陰で暗かったこともあり、ややブレ前ピンと無様な写真になってしまいました。



飯能駅にて

飯能駅ではスイッチバックとなるため、方向を変えるための入換が行われます。後続の電車に乗って充分間に合いましたが、さすがにイベントとあってキレイに写真を撮るのは困難。いつの時代も執着テツに行く手を阻まれます。ホームの無い側線での入換なので、構図的には余裕があります。
ここからはプッシュプルになったんですかね。記憶は無いのですが、先頭は単機になっており、その横にもさらにE851形を並べるという大サービス。西武職員のファンへの対応、こだわりに拍手です。




その大きさが故に引き取り手が無く、その寿命を早めてしまったE851。
中学生のオリエンテーリングのときに初めて見た、丸窓の赤いEF65Pのような姿に憧れた、この機関車が存在したことは一生忘れることは無いでしょう。

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クハ180:特急「とき」

2012-06-24 00:30:00 | 国鉄・JR特急列車
クハ180:特急「とき」


クハ180は、横軽通過用に連結器の開放装置を装備した車両で、クハ489-0番代車と同様に開放テコを常設していました。これは、補機となるEF63の双頭連結器にある自動連結器のナックルが固定式(一体)であるため、機関車側での開放作業が出来ないことによるものです。開放作業を特急列車側に求めたために出来上がったスタイルと言えるでしょう。

運用は「あさま」用と言って良いと思いますが、同じ長野車の運用である「あずさ」にも使用されていました。しかし、協調運転が出来ないことから編成が8両までとされたため、輸送上のネックになっていました。
その後、189系の誕生によって12連化が可能となり、これに合わせて昭和51年、早々に専業である「あさま」から撤退することになります。そして、任を解かれたクハ180は、181系唯一となる「とき」に使用されるようになりました。



昭和52年頃 上野駅にて

文字マーク時代の「とき」。やはりこの組み合わせが良いですね。



昭和54年頃 蕨~西川口間にて

53・10改正から約1年後、ボンネット型にもイラストマークが導入されました。
古い181系には色合いと言い、似合いませんね。



昭和54年頃 上野駅にて



昭和56年頃 蕨駅にて


昭和56年8月 蕨~南浦和間にて



昭和56年8月 蕨~南浦和間にて



撮影時期不明 蕨~西川口間にて

写真を本格的に撮り始めた頃は、どうもこの車両があまり好きではなかったらしく、クハ180の写真が殆ど無い状態でした。したがって、文字マークのクハ180は上野駅で撮った1枚だけのようです。ロングスカート車への注目が強かった頃でしょう。

その後、全国に先駆けてボンネット車へイラストマークが入るようになり、181系のイメージを損ねることとなってしまいました。
この頃から特急列車の写真への写欲が薄らいでしまいましたが、それでも貴重となったクハ180は良く撮っていたようです。

クハ180は全て100番代に該当する形式で単一ですが、何故か-5のタイフォンだけは開閉式のカバーが付いていました。

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マニ30:現金輸送車

2012-06-22 00:30:00 | 荷物列車、荷物車
マニ30:現金輸送車


マニ30は、日本銀行所有の現金輸送車で、マニ34として6両が製造されました。
マニ34は昭和23年製の旧型客車で、車体も茶色塗装でしたが、外観は他の荷物車とは一線を画す様相をしていました。後にマニ302001~2006に改番されています。

元マニ34の老朽代替車として誕生したのがマニ302007~2012で、昭和53年~54年にかけて製造されました。



昭和56年 蕨~西川口間にて EF5859牽引のマニ30

この列車がどのような状況の下に運転されたのか、経緯はわかりませんが、高崎第二機関区所属のEF5859号機がマニ30とスニ40を連結した回送列車です。



昭和56年1月頃 上野駅にて EF5888の牽引する回送列車

東北新幹線の東京乗入れ工事が始まる以前、品川客車区から尾久客車区への回送は東京~上野間の回送線(現在の電留線)を使用していました。現在では、山手貨物線経由で東大宮操車場まで行き、折り返して尾久へ持ち込む経路となっています。


マニ30は、その車輌の特殊性から、回送であっても一般旅客車には連結されることがありませんので、このように乗客を乗せていない回送列車や荷物列車へ併結するか、単独での回送となることが殆どでした。

客車列車の場合は全てに言えるのですが、単独で暖房設備を持たない旧型車や50系客車は、原則として電気暖房又は蒸気暖房装置を搭載した機関車が限定で運用されます。
したがって、首都圏ではEF58、EF62、EF64、DD51又はDE10のSG搭載車といった機関車でないと、マニ30のような客車を牽引できないわけです。この点については、原則暖房を要しない夏季期間についても限定されていたことが多かったようです。

晩年は荷物列車が廃止されたため、高速コンテナ列車に併結されたそうですね。ちなみに、私は目撃したことはありませんが、冷房電源を持っていたところからディーゼルエンジンを搭載していると思われ、暖房も単独で使用することができたのかもしれません。

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