「無理聞いてくれたスタッフに感謝」蜷川幸雄が新聞のエッセー「演出家の独り言」(朝日新聞4/28)で言っていた。なんの世界でもそうだろけど、演劇ってスタッフの力がとつてもなく大きい。装置にしても道具にしても衣装にしても、様々な演出上の工夫にしても、スタッフのやる気と熱意とアイディアがなくっちゃ成立しない。
蜷川が近作「リチャード二世」の制作過程での苦労を語っている。「波幕使えない?王冠、宙を飛ばせない?着物からモーニングに早着替えできない?全員でタンゴ踊れない?」次々わき出す無理難題をスタッフは全部やってくれたって。ただから、感謝。
そりゃそうだ。いくらアイディア噴き出したところで、それを形にできなきゃ、ただの妄想。思いつく人間=演出あるいは作家と、それを現実化する人たち=スタッフ、裏方の切磋琢磨の共同作業で舞台は立ち上がってくる。
蜷川の芝居なんか特に、突拍子もない発想があちこちに吹き出てくるから、その難問を解決していくスタッフの力量は並のものじゃないだろうな。以前見た「リチャード三世」じゃ、冒頭、空から人間も含めありとあらゆる都市のゴミ・廃物が降ってきて度肝を抜かれもんだ。
で、我が身を振り返る。もちろん背伸びしたって、ケンケンしたって、ダイブしたって、蜷川の発想の自由さ、豊富さ、とんでもなさには飛びつけない。それ前提に、図々しくも言っちゃうと、アイディアは出せるんだ、やりたいことは山ほどあるんだ。菜の花座だって、王冠ならぬ赤ん坊が宙を飛んだ。今度の菜の花シニア団では一瞬にして男は女に、女は男に早変わりする。全員でタンゴやワルツ踊るのだって、置農演劇部で試してきた。
やってはみたが、観客があっと驚く切れ味には達しないってこと。ここがアマチュアの切ないところなんだなぁ。スタッフの力量不足、経験不足、の前に、スタッフそのものの圧倒的不足!菜の花座なんて、装置も衣装も道具も役者が交代で手作りだ。照明の専門スタッフだっていない。もちろん、音響もね。資金の問題なんかも当然大きく立ちはだかる。
ないない尽くし、できませんの壁を前にして、演出はどうするか?理不尽にも「できないって言うな!」とわめき散らしてみるが、じゃあやってみなよの反発を食うだけ。仕方なく、なんとか発想が形になるように具体的な方法を提案する。場合によっては作って見せる。アイディア出したら最後まで責任持てよ、状態なんだ。
辛いんだよ。発想の限界じゃなく、アイディア実現の限界に阻まれるわけだから。そういう八方行き止まりに晒され続けると、最初に台本書く時から、できることできないことを頭に浮かべながら書き始めなくちゃなんない。神社作りたいけど、無理だからせめて鳥居か?とか、本格的な座敷は大変だから、障子を数枚立てて和室に見立てるか?とか、衣装は貫頭着スタイルで我慢するか?とかどんどん安易な方向へと撤退していってしまうのだ。
限界に囲まれてるからこそ、アイディアで勝負!なんてかっこいいこと言うなよ。できない!無理!不可能!の攻撃は創造力さえ萎縮させて行くんだ。いつの間にか、ハードルは低く、壁は迂回して、無難がモットーの芝居造りに、堕していくわけなんだ。これが怖い。
できる範囲でなんとか思い切った表見を獲得したいと考え続けてはいるつもりだ。でも、きっと、無意識のうちに守備範囲を狭く限っていっているに違いないんだ。テーマだって、題材だって同じこと、知らず知らずに、これなら出来る、ここならなんとかって後退戦に入っているんたと思う。
このやりきれない消耗的な限定戦からどうどう巻き返して行くか、これからも悩み悶え続けなくちゃならないんだろうが、効果的な戦法があるとすれば、そりゃやっぱゲリラ戦なんだろう。山岳ゲリラなのか密林ゲリラなのか、都市に潜むのか、いずれにしても、自分たちにできる独創的な戦法を編み出すしかないのだろう。てことは、ここがアイディア勝負ってことなのか?
蜷川が近作「リチャード二世」の制作過程での苦労を語っている。「波幕使えない?王冠、宙を飛ばせない?着物からモーニングに早着替えできない?全員でタンゴ踊れない?」次々わき出す無理難題をスタッフは全部やってくれたって。ただから、感謝。
そりゃそうだ。いくらアイディア噴き出したところで、それを形にできなきゃ、ただの妄想。思いつく人間=演出あるいは作家と、それを現実化する人たち=スタッフ、裏方の切磋琢磨の共同作業で舞台は立ち上がってくる。
蜷川の芝居なんか特に、突拍子もない発想があちこちに吹き出てくるから、その難問を解決していくスタッフの力量は並のものじゃないだろうな。以前見た「リチャード三世」じゃ、冒頭、空から人間も含めありとあらゆる都市のゴミ・廃物が降ってきて度肝を抜かれもんだ。
で、我が身を振り返る。もちろん背伸びしたって、ケンケンしたって、ダイブしたって、蜷川の発想の自由さ、豊富さ、とんでもなさには飛びつけない。それ前提に、図々しくも言っちゃうと、アイディアは出せるんだ、やりたいことは山ほどあるんだ。菜の花座だって、王冠ならぬ赤ん坊が宙を飛んだ。今度の菜の花シニア団では一瞬にして男は女に、女は男に早変わりする。全員でタンゴやワルツ踊るのだって、置農演劇部で試してきた。
やってはみたが、観客があっと驚く切れ味には達しないってこと。ここがアマチュアの切ないところなんだなぁ。スタッフの力量不足、経験不足、の前に、スタッフそのものの圧倒的不足!菜の花座なんて、装置も衣装も道具も役者が交代で手作りだ。照明の専門スタッフだっていない。もちろん、音響もね。資金の問題なんかも当然大きく立ちはだかる。
ないない尽くし、できませんの壁を前にして、演出はどうするか?理不尽にも「できないって言うな!」とわめき散らしてみるが、じゃあやってみなよの反発を食うだけ。仕方なく、なんとか発想が形になるように具体的な方法を提案する。場合によっては作って見せる。アイディア出したら最後まで責任持てよ、状態なんだ。
辛いんだよ。発想の限界じゃなく、アイディア実現の限界に阻まれるわけだから。そういう八方行き止まりに晒され続けると、最初に台本書く時から、できることできないことを頭に浮かべながら書き始めなくちゃなんない。神社作りたいけど、無理だからせめて鳥居か?とか、本格的な座敷は大変だから、障子を数枚立てて和室に見立てるか?とか、衣装は貫頭着スタイルで我慢するか?とかどんどん安易な方向へと撤退していってしまうのだ。
限界に囲まれてるからこそ、アイディアで勝負!なんてかっこいいこと言うなよ。できない!無理!不可能!の攻撃は創造力さえ萎縮させて行くんだ。いつの間にか、ハードルは低く、壁は迂回して、無難がモットーの芝居造りに、堕していくわけなんだ。これが怖い。
できる範囲でなんとか思い切った表見を獲得したいと考え続けてはいるつもりだ。でも、きっと、無意識のうちに守備範囲を狭く限っていっているに違いないんだ。テーマだって、題材だって同じこと、知らず知らずに、これなら出来る、ここならなんとかって後退戦に入っているんたと思う。
このやりきれない消耗的な限定戦からどうどう巻き返して行くか、これからも悩み悶え続けなくちゃならないんだろうが、効果的な戦法があるとすれば、そりゃやっぱゲリラ戦なんだろう。山岳ゲリラなのか密林ゲリラなのか、都市に潜むのか、いずれにしても、自分たちにできる独創的な戦法を編み出すしかないのだろう。てことは、ここがアイディア勝負ってことなのか?