ステージおきたま

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コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

シニアだってマジ勝負!シニア演劇学校三期生公演

2014-11-30 22:53:58 | シニア演劇
 フレンドリープラザシニア演劇学校三期生公演『マダム・アンコの伝説』終わった。出演の4人のシニア熱演だった。賛助出演してくれた高畠町少年少女合唱団の子どもたちも頑張ってくれた。

 今回は半分が音楽の専門家ってこともあって、当然ミュージカル。1時間5分の芝居に11曲もの歌をはめ込んだ。歌詞覚えるだけだって大変なのに、4人でのお芝居、これは演劇初心者としては相当の苦闘だったと思う。悩んで苦しんだ4ヶ月地道に稽古を積み重ね、本番一週間前からの連日の稽古で格段に表現力も大幅にアップした。だから、見応えも、聞き応えもたっぷりに仕上がった。歌が終わる度に拍手が起こるほどの反響で、最後のダンスは会場いっぱいの手拍子で盛り上がった。

 装置や小道具の質も高く、僕の意識としては、こりゃもうシニア演劇の水準をはるかに超えるな、ってところだった。菜の花座若手が担当したスタッフも、楽しみながらも張りつめた意識でバックアップしてくれて、この意味でもシニア演劇レベルじゃないと思った。

 でも、厳しい意見もいくらかあって、歌唱法が統一していないとか、歌声が聞きづらかったとか、マイクは使わない方が良かったとか、いくつか耳の痛い批評ももらった。おっしゃることは、ごもっとも!たしかにそれは弱点だったに違いない。僕としもかなり悩んだ部分だった。でも、一人一人は精一杯やっていたし、たとえ歌い方に違いがあったとしても、二人の歌唱力は抜群だった。説得力だって十分だったと思う。なのに、・・・

 思うに、これって質が上がったが故の手厳しさだったんじゃないだろうか。もしも、今回のメンバーがせりふもとちる、演技もぎこちない、いかにも、シニア!!って人たちだったら、きっと暖かく見守ってくれたんじゃないかな。せりふが出なくても暖かい笑いが応援してくれる、そんなシニア演劇の和気藹々とは無縁のステージだったんだ、今回の公演は。

 レベルが上がると、必然的に観客の目も辛いものになってくる。僕がプロの舞台に言いたい放題するのと同じ現象なんだよな。おっと、プロ並みになったなんて言う気は毛頭ないけどね。少なくとも、見守ってあげようね、って地点からは離陸してしまったんだと思う。喜んでいいのか、悲しむべきなのか。

 図星を指されるのはなかなかきつい。でも、それも、「あんたら認めてんだから、」って読み替えれば、元気の種にもなってくるってもんだ。貴重な励ましとして、ありがたく心に留めて、次回を期そう。

 でもそうなると、シニア演劇の気楽さって失われちまう気もするよなぁ。

 

 

 





 

 
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よし!この装置なら

2014-11-27 23:35:58 | シニア演劇
 三日後に迫ったシニア演劇学校三期生公演、装置が完成!どうですか、見事な出来だと思いませんか。ケーキ屋さんを舞台にしたメルヘンです。

 今回三期生は3人、そこに事務局が参加してキャストはわずかの4人。装置は無理せず、あり合わせのものを極力再利用して、・・・なんて当初のもくろみはあえなく吹っ飛んで、仕上がってみれば、ご覧の通り凝りに凝った出来映え。うーん、やっぱ、とこんとん行っちゃうんだよね、ついつい。

 でも、僕だけじゃない。今、菜の花座には凄いスタッフが育ちつつある。ものつくりのFさん、美術のKさん、そして、それを実現できる若手メンバー。演劇学校の卒業メンバーを含めて10人以上の人たちが、入れ替わり立ち替わりして、仕上げた結果がこれだ。

 もちろん、三期生の3人も頑張った。歌もダンスもお芝居も、って順序が逆か?稽古を続けながら、初めての装置作りにも精を出した。ほとんどものつくりをしなかった一期生から比べると、格段の進歩だなぁ。回を重ねるってことは、経験を積むってことは、こういうことなんだ。

 多くのスタッフに囲まれ、支えられて、いよいよ明日は仕込みとゲネプロ。裏方は菜の花座の若手が中心。表方はシニアメンバーが担当する。分厚くなる制作陣、フレンドリープラザの大きな財産になりつつあるんじゃないだろうか。

 公演は11月30日(日)午後2時開演だ。見なきゃ損だよ、絶対に。




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死相?見えたり。フルマラソンゴール直前!

2014-11-25 14:04:14 | ランニング
 写真って好きじゃない。顔に自信がないから?当たり!スタイルがかっこ悪いから?当たり!もっと大きな理由は、過去を振り返ることをしないから。だから自身のアルバムなんてものを持っていない。いろんな時に撮ってもらっても、そのまま机の引き出しの奥にお蔵入り。自分の中高時代はもちろん、担任時代の卒業アルバムもほとんど開いたことがない。なんか、過去の写真見ながら感慨にふけるってこと自体が、ひどくこっぱずかしい。はっきり言って、そんな暇あったら、台本書くよ、ってこと。前向きだなぁ!僕。(その自惚れの方がこっぱずかしい!)

 だから、どんな場面ても極力写らないよう心がけてきた。断るとか、撮り手に回る(演劇に関しては、僕は記録係なので役者たちの舞台姿は当然写す)とか、陰に隠れるとか、まっ、最近は、みんなが気持ちよく記念写真撮ろうとしている時は、あまり駄々をこねないようにしてはいるんだが。

 ところが、こちらの意向などお構いなく写真撮られる機会があるってことを、最近知った。そう、マラソン大会のカメラマンだ。いやいやアマチュアの写真家なんかじゃない。プロの写真屋さんだ。大会によっては何人ものカメラマンが、コースのあちこちに陣取ってバチバチと連写を続けている。笑顔!とか、手振ってとか、なんか注文付けてくる。時には頑張れ!って声援送りつつ仕事に専念している人もいる。ポイントを移動しつつ何カ所かで撮影するので、出場ランナー全員が10枚前後は撮られることになる。

 大会当日写された画像は、後日インターネットの写真屋さんのサイトで公開され、なんとゼッケン番号から自分の写っているすべての写真を見ることができる。もちろん、商売だからそれを販売して儲けを得ているわけだ。なるほどね、商機はどこにでもころがっている。たしかに、自分が走ってる姿って、スマホで自撮りするか、家族や友人に撮ってもらうしかないわけだから、ここぞの場面や全身像なんてのは、ご商売の方たちにお任せするしかないわけだ。

 プロが写す写真てのは、演出がつきものだ。ゴールなら両手を挙げてとか、完走の喜びとか、途中なら、笑顔でゆとりとか、スタート時なら、行ってきまぁぁすとか、ね。この演出されるのが実に嫌いなんだ。走り続ける一時一時、ひとそれぞれの思いがある。苦しくて苦しくて写真どころじゃないぜとか、ほとんど歩くようなスローペース、撮るな!って叫びたいとか、ゴールだって、みんながみんな完走の満足なんかじゃない。だから、途中、待ちかまえられてカメラ向けられると、なんか不機嫌になってしまう僕なんだなぁ。誰が笑ってやるもんかなんてね。素直じゃない!

 ところが、今回の飯坂茂庭っ湖マラソンの写真については、相当悩んだ。買うべきかどうか。高い!(一枚データもらうと送料込みで3000円以上)ってこともあったけど、思い出は頭と体の中にしっかり納められてる、それで十分!って思いが大きかった。大会走るたび自分のランニングポーズ見とれててどうする!写真には42.195kmは切り取れない!と、これまでの大会同様、見せてもらってフォームの確認だけさせてもらって終わり!ってつもりだった。

 なのに、買っちまったよ。十枚ほどあったうちから一枚。初フルマラソン完走記念てこともあったけど、この写真のあまりの形相、まさしく死相漂ってる、に打たれるものがあったのが最大の理由だ。この一枚、40km過ぎゴール直前の苦しい下り坂を必死で耐えているところ。30分前には両足が交互につり、完走危うし!ってどん底の危機からかろうじて立ち直り、坂の傾斜を頼りに惰性で走り続けているこの瞬間。この辛さ、この苦しさ、この必死さ、よくよく表れた一枚だと思ったんだ。悪くない、この死相!

 で、買った。ついでに、FBやブログのプロフィル写真にもしてしまった。当分はこの死と隣り合わせの形相を見ながら、ありとあらゆる場面で心引き締めて行こうなんて殊勝な決意を固めている。




 

 

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お気楽な台本書いてみた。菜の花座次回公演『夢金らぷそでぃ』

2014-11-24 08:32:27 | 演劇
 菜の花座次回公演の台本、ようやっと書き上げた。って言っても先々週のことだけど。シニア三期生の稽古はあるし、里芋は掘らんなねし、便所のくみ取りはさんなねし、タイヤ交換も雪囲いも、それになんたって走らなっきゃなんない。おっと、町から頼まれた加工講座の準備てやつもあったりで、気ばかり急く毎日だった。そうそう、寒波も軽~く到来したりしたしね。

 焦り、苛立ち、腹立ち、諦めつつ書いたのが『夢金らぷそでぃ』。村で金融業を営む尼さんのお話し、と言っても中心はそこに群がる蟻女たちの夢と野心の物語だ。はっきり言って、軽い!たわいない!そんなんありか?バカバカしいと侮蔑のまなざしを投げつつ劇場を去って行く観客の姿が目に浮かぶようだ。こわぁぁぁ!だって、大金持ちが二人も出てくるんだもの。しかもその二人が、てんで金に執着してない、ってどう考えたって、ありえねぇぇぇ!だよね。さらに、さらに、その大金持ちの後釜を狙って5人の女が同時に見合い?ここまでくれば、もうまともな演劇見ようって気は無くなるだろう。

 いいんだ、そこが狙いなんだから。そう、とことんくだらない話しを書こうと思ったんだ。突拍子もない筋立て、まさかのキャラクター、おバカな仕草の波状攻撃で2時間半を突っ走ろうって魂胆なんだ。コントのノリだね。できれば、12あるシーンのすべてがコントになればいいって思ったけど、残念ながら力不足、マジなやりとりやいかにも風の長ぜりふも書き込んでしまった。そこまでバカバカしくていいのか?なんて自己規制しちまうんだよね、僕の弱さ。

 こんな作品書いたのは、ひとえに前回作品『山棲』の超マジメ、徹底暗黒、主張満載さの落とし前ってことなんだ。あれはあれで、辛くはあったけど、悪くはなかった。少ないながらお客さんにも意図は存分に伝わったし、良かったと評価してもらえた。役者もこれまでにない役所で、真剣に殻を脱ぎ捨てようと努力してくれたし、一皮むけて成長できた。でも、このお堅い路線を走り続けるなんて、無理!無理!!無理!!!田舎じゃお客さん来なくなる。菜の花座つまらない!ってそっぽ向かれる。役者も息つけなくて窒息、酸欠するよ。なにより、僕がやってらんない。舞台続けるエネルギーの一番は、あるいは2番は、あるいは、・・・まっ、要するに大切な力は、僕の場合笑いなんだから。楽しくなけりゃ芝居じゃない!笑いがなけりゃ舞台じゃない!なんたって松竹新喜劇とてんぷくトリオを見て育った人間だもの。松竹新喜劇は、藤山直美のお父さんの天才あほ役者藤山寛美が一世を風靡した人情喜劇。てんぷくトリオは言わずもがな、井上ひさしさんが台本を書いていた伝説のコントグループ、と、まあ、笑いの土壌で笑いを吸い上げまくって育った僕ってことだから、笑いにはどうしたってこだわりたい。

 と、まあ、こういった事情で、今回は、実にたわいなく、およそ真剣みなく、とことんあほらしい舞台が目標だ。そんなんありえねぇ!って心の中で叫びながら大爆笑してもらえたら、心底幸せだ。せりふのやりとりにも、あちこちギャグを仕込んだつもりだ。役者の演技もこれから、あくまでコミカルに仕上げて行くことになる。コントで鍛えた実力をめいっぱい発揮してほしいと願っている。だから、見に来てください!来年1月18日(日)午後2時スタート。いいですか、雪が降ってたって、猛吹雪だって来るんですよ。ぜったい暖かくなって帰れますから。





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笑ってる場合ですか!『鴎外の怪談』

2014-11-19 10:40:08 | 劇評
 久しぶりにこまつ座以外の舞台を見た。二兎社公演、『鴎外の怪談』。ほんと寂しいよ、プロの芝居はほとんどかからなくなってしまったフレンドリープラザ。以前は年に何本もやってきて、なんと黒テントだって公演してたのに!地方はどこでもかでも落ち込む一方だ。しかも、観客が200人程度!って、うーん、絶句!菜の花座のシニア公演より少ないなんて。

 二重の意味で地方の貧しさを見るな。一つ、経済的貧窮、チケット代5,000円ってここらの一般感覚として、かなり厳しい、だから客が来ない。でも、そればかりじゃない。だって、こまつ座なんかで有名タレント出てれば、もっと高くたって満席だから。テレビでお馴染みの人なら見に来るってことだ。これがもう一つの地方の貧困。

 でも、こりゃなにも地方に限ったことじゃないかもしれない。東京なんかの大都市圏だって、分母がめちゃくちゃ大きいから、それなりに入っているふうに見えるけど、名の通らない劇団、役者、作者の作品だと、やっぱり、えっ!これだけ!!って具合だから。要するに、日本の貧しさってことなんだな。

 さて、『鴎外の怪談』だ。作者の永井愛さんは僕のもっとも崇敬・敬愛する脚本家だ。永井さんの作品は、置農演劇部で2回、菜の花座で1回上演している。置農でやった『見よ、飛行機の高く飛べるを』なんかは、惚れて惚れて惚れ抜いて、二回も上演してしまったほどだから。

 永井さんの作品の魅力は、時代と切り結ぶ真摯さとその鋭い問題意識を笑いの中に溶かし込む巧みさかな。『見よ、飛行機・・』は、明治期、女性の目覚めを権力や社会との圧倒的な風圧に抗して生き抜こうとした女子師範学校生徒たちの挫折と希望の物語だった。今回はほぼ同じ時代の鴎外だ。幸徳秋水らの大逆事件が時の政府のフレームアップであることを比喩的に批判しつつも正面切って対決しえない鴎外。事件に面と向かえない自己に絶望し戯作者へと韜晦する永井荷風。時代を画す鋭い棘を自らの痛みとして誠実に悩み苦しんだ人たち。世俗的な義理や欲と誠実に生きんとする欲求の板挟みとなってもだえ苦しむ鴎外、その姿は、若き日、エリーを切り捨てた過去の過ち、さらには幼少時のキリシタン弾圧の記憶につながり、自己を責めさいなむ。

 さて、今の時代はどうなんだ?見て見ぬふりをしちゃあいないか。大きな屈曲点をやり過ごしていないか。我慢ならぬことに押し黙っていないか。あの時代大逆事件が暗黒の時代への曲がり角であったように、今もそんな歴史の変節点にあるのではないのか。永井さんの息詰まるような自問自答が、鴎外や荷風の言葉のはしばしからはき出され、その必死なまなざしは、当然観客の心を痛撃する。必死のまなざし、喩えなんかじゃない。だって、すぐ近くで永井愛さんが見ていたからね。

 だからってことなんだろうか。今回の作品は笑いの仕掛けはずっと限られていたように思う。もちろん、永井さんの作品だから、究極のクライマックスに見事な笑いを仕組んであったりもしてところどころ客席に笑いは広がってはいたが、やはりリラックスして楽しめたというわけには行かなかった。

 たぶん、笑ってる場合ですか?!ってことなんだろう。それだけ永井さんの危機意識が痛切だってことなんだって思いつつ、さて、おまえはどうなんだ?見逃していないか?許していないか?自分を賭けて行動できるのか?詰まらぬくすぐり喜劇書いてないで、時代と真っ向勝負しなくちゃいけないんじゃないか?・・・・と、暗い思いに苛まれつつ、舞台ばらしの手伝いしてたのでした。

 おっと、永井さん、あら、笑わせたつもりだっのに、なんて残念がるかもしれないけどね。

 
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