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ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

暴言!暴走!!演技指導?

2008-09-06 21:40:08 | 演劇

 困ったもんだ!歳とったらいくらかでも柔和になんのかと思ったら、とんでもない!やたら暴言が激しくなってきている。数年前だったら、決して言わなかった「下手くそ!」とか、「どじ!」とか、「ワンパターン男!」なんて言葉がぽんぽん出るようになってしまった。

 いかん、まったくいかん!かの灰皿投げの著名演出家だって、最近はぐっとおとなしくなったっていう話なのに、なんだ、僕は、暴走老人への道をひた走っているではないか。そんな罵詈雑言を浴びせられる部員たちはどんな気持ちで聞いているだろうか?

 間違いなく言えることは、歳をとるにしたがって、相手の気持ちを思いやるのが面倒になってきているってことだな。怒ったっていいよ、泣いたっていいよ、そんなこと気にしない!ってことなんだ。それより、どうしてこんな簡単なこと出来ねえんだ!いつまで一本調子やってんだよ!アクセント違う!おめえの耳はなんのためにあんだ?・・・・・・もう、感じたまま、思いついたままだもの。言われる方は非道いべね。

 でもね、ちょっと思い出してみると、最近の連中は稽古で泣かないんだよ。どんなぼろくそ言われたって泣かない。うん、そうだ、泣かない。以前は違ったねえ、今菜の花座にいるタイチなんか、しょっちゅう唇噛んで涙こらえてた。いやいや、僕のこと睨みつけながらぽろぽろ涙こぼしてた。

 どういうことだ?丁寧な言葉でダメだししてたときの方が、よっぽど生徒にゃこたえたってことなのか?うーん、そうかもしれない。つまり、こうだよ。以前は、言葉は優しいけど、絶対許さないっていう気迫がみなぎっていたんだろうな。でも、今は、やたら言葉汚くののしるけど、部員たちは、ああ、爺さんまた咆えてるよ、ってな具合で軽~く聞き流しているに違いないんだ。そういえば、最近稽古に張りつめた緊張感が欠けているかもね。笑い続出だもの、今日だって。暴言もスキンシップみたいなもんなんだろう。

 まあ、それでも置農演劇部としては、ちょっとずつ上手くなっていってるようだから、今のままでいいんだろうな。暴言!暴走!!稽古は爆笑!楽しくやろうぜ、気なんか使わずにさ。

 

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やっぱり!でした、『闇に咲く花』川西公演

2008-09-05 00:45:54 | 演劇

 何だよ、やっぱりって?

 うーん、正直、好きになれないって思ってたんだけど、今回もやっぱりだった!ってことだ。以前見た時も、どうも乗れない芝居だと思った。台本読んでも、なんか、暗くて嫌だって感じてた。その気持ちが今回も変わらなかった。

 一言、好きじゃありません!この芝居。

 どうしてなんだ?一つは、この芝居のテーマ、神社の戦争責任って奴があまりぴんと来ないってことだろう。いやいや、神社に戦争責任がないなんて考えちゃいない。大あり名古屋の太閤様だ、って、おいおい、なんかすげー大時代な表現で、書いてしまって驚くよ。だから、有りすぎて、当然過ぎて、こうもまともに追求する気にもならないってことかな。井上さんのまっとうな声が、ずばすば聞こえ過ぎて、ちょっと辟易してしまうってことなんだろうな。

 そんな風に感じるのは、僕が都会育ちだからかなあ。芝居の中で、何度も繰り返されていた神社空間の明るさ、清らかさ、今風に言えば癒しの空間、こういう体験が都会育ちには、希薄だってことかもしれない。言われてわからないわけじゃない。でも、そんなに肩怒らせて、言うほどのことには感じないってことなんだ。

 も一つ乗れない理由が、C級戦犯ってものの扱いなんだ。言うまでもなく、いえ、若い人らには言わなきゃわかんないか、C級戦犯ってのは、捕虜や占領地人民への虐待の罪で裁かれた人たちのこと、特に兵士クラスの実行犯が主体だ。1000人近くの人がBC級戦犯として処刑されたということだ。『闇に咲く花』の主人公健太郎も、グァム島での出来事からC級戦犯として追われる身となった。この作品では、どうやらこの訴追はぬれぎぬのようなのだが、つまり、冤罪ってことなんだけど、それに対する怒りとか、告発って奴はあんまり感じられない。いや、出頭命令が出て、健太郎がショックのあまり記憶喪失になるって筋立てを勘ぐると、もしかして、健太郎は現地人への虐待の事実があったのかな?とも、感じられてしまう。だから、神社が戦争に荷担した記憶と向き合うように執拗に問いつめるのかな?

 うーむ、どうもすっきりせん!ともかく、井上さんが、こだわっている部分が、僕にとっては、正面切ってぶち当たってこないってことなんだ。それに、芝居の作りも、今ひとつ、すっきりしていない。5人の戦争未亡人も、一人一人生き生きと描かれていないって感じる。なんか、ステレオタイプだ。演技的にも、声がきんきんしていて聞きづらかったし。演出もわざとっぽくて、なんか、最初から引いてしまったな。

 一緒に見せてもらった部員たちはどんな感想だったんだろう。3時間の長丁場、眠らずに見られたのかな?jまあ、今作ってる『Let's Dance 1946』の時代背景をつかむには勉強になったとは思うけどね。

 

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いつだって、冒険!

2008-09-03 00:09:40 | 演劇

 菜の花座山形文翔館公演『雲雀、はばたきて』が、どどーっと近づいてきた。おいおい、あと、1ヶ月とちょっとだよ。ついこの間、劇中劇で使うイプセン『人形の家』の台本について、翻訳者の原千代海さんから使用許可をもらった。今日は、ようやく照明のラフプランを仕上げて照明のジュンコさんとミカに渡した。この一週間、通勤の車の中では、ショパンのピアノ曲を鳴らしっぱなしだ。そう、劇で使用する音楽だ。さらに、衣装についても早急に手配しなくちゃならない。おっと、ついさっき、女学生が校舎内で履く草履をネットで注文したっけ。いやはや、次から次だ、まったく。

 さて、照明プランについては、ひどく苦しんだ。何たって、センター舞台だからね。しかもそればかりじゃなく、本来あるステージも利用する。さらに、仮設のセンター舞台と奥のステージとをつなぐ渡り廊下なんてものも作ってしまおう、てんだから、照明だってやたら面倒なんだ。その大変さは、上からの明かり=サスが使えないって言えば、演劇に関わる人はわかってくれるだろう。そう、渡り廊下もセンター舞台も全部、横からまたは斜めからの明かりで対応しなくちゃならない。しかも、地明かりは欲しい、トップも欲しい、って贅沢なんだから、まったく。

 なんだって、こんな面倒なことするの?スタッフのあっちこっちからぶつくさ言う声が聞こえてくる。でもね、面倒だから、面白いじゃないか!大変だから、やり甲斐があるってもんじゃないか!

 いや、センター舞台にした理由はあるよ、たしかに。例えば、文翔館は客席がフラットで、縦長だから、奥の舞台でやっても、お客さんはとっても見えにくいんだ。その点、真ん中に舞台作れば、観客と役者の距離がぐっと縮まる。お客さんは芝居を間近で見ることがせできる。

 でもね、そればかりじゃない。なんで客席の中央で芝居するか?って言えば、四方八方から見られてるって、かなり刺激的じゃないか。前方の客席を意識せずに演技するってすっごく新鮮じゃないか。何よりスリリングで楽しいじゃぉないか。えっ?楽しんでのは演出のお前だけだって?うん、まあ、そうかもしけない。でも、あっちこっちから覗かれる役者にとっても、すっごい冒険なんだと思う。これまでなら、ほとんど意識しなかった後ろ姿に視線が注がれるんだからね。

 つまり、僕は、公演一つ一つが、新しい試みでありたいと願っているんだ。常に冒険でありたいと思っているんだ。手慣れたものをだらだらと作り続けたって意味はない。たとえ失敗したとしても、新しい取り組みに手を染めたい。たとえ酷評されるとして、なんか斬新なことをやってみたい。あっと言わせることで勝負したい。これが、僕が公演を打ち続ける原動力、エネルギーってものなんだ。ちくしょう!絶対、新しいことやってやるぜ!この気持ちが無くなったら、演出家として作者として、年貢の納め時ってことなんだよ、つまりは。

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