ステージおきたま

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コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

課題は、1946年を生きる若者

2008-09-30 23:43:17 | 演劇

 地区大会を終えて、取り組むべき課題がくっきりと見えてきた。二人の審査員から同じく指摘されたこと、それは、役になりきれていない!ってことだった。1946年の青年たち。そりゃ無理だよな。部員たちには遙か昔の伝説みたいなものだ。

 だいたいね、第2次世界大戦で日本が戦った国を三つと挙げられない人たちなんだよ。そのころの青年たちの考えや思いなど知るすべもない。60年の歳月は、どこまでもどこまでも果てしないのだ。なのに、敢えて書いた。1946年の青春を。うーん、実に無謀だ。

 一年前までは、死と隣り合わせの日常。戦いと壮絶な最期を間近に見据える日々。なのに、そこから突如放り出された青年たち。彼らのとまどい、彼らの空虚、彼らのやるせなさをどう感じたらいいのだろうか?どう表現したらいいのだろうか?これは僕にだってわからない。でも、もう書いてしまったんだ。手探りでも、当てずっぽでも、手当たり次第でも、やってみるしかないのだ。

 稽古では、目一杯時間を割いて、時代背景を語り聞かせてきた。当時の風俗、出来事、政治、ことある事に語ってきた。でも、ダメだった。言葉で伝達される知識には自ずと限界があった。

 だから、まず、視覚で時代を感じとる所から再開しようと思う。そう、ビデオを見せようってことなんだ。今井雅之の『Winds of God 』、鈴木清順監督の『肉体の門』。さらに、アメリカの若者風俗とダンスを見知ってもらうため、『ウェストサイド ストーリー』。これらの名作をじっくりと見て、一人一人が自分の役柄を理解してもらおうと思う。

 でも、それだけでは不足だ。若者一般を感じとったところで、一人の穣司、一人の義男、一人の耕太にはならない。時代と交差しつつも、個々の生活があったはずだからだ。だとすれば、彼ら一人一人の人生を、そのバックグラウンドを作り上げて上げるしかない。で、それは、台本を書き演出をする僕の仕事ということになるだろう。

 いずれにしても、もっともっと肉薄しなくちゃならない。彼らの悲痛な叫びを心の奥に聞かなくてはならない。どこまで、迫れるか?1946年の青春に、それが、東北大会への決め手となるだろう。

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