ステージおきたま

無農薬百姓33年
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コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

発見!『父と暮らせば』

2008-06-29 10:55:34 | 演劇

 こまつ座公演『父と暮らせば』を見た。今回でこの芝居を見るのは三回目、脚本も読んでいる。ストーリーはもちろん分かっている。装置もああこれこれって懐かしい。導入の押し入れシーンはいつ見ても、洒落た工夫ににんまりしてしまう。せりふだって、随所に、そうそうそうだったと、思いだしつつ見た。なのに、にも関わらず、昨夜の舞台は発見の連続だった。

 例えば、父親が原爆の惨状を一寸法師の昔話を借りて語るシーン、覚えていない。いや、覚えてはいる。でも、語りつつ次第に激していく父親の恨みつらみの衝撃力はまるで記憶にない。そのときのせりふ、原爆の灼熱の温度は16,000℃、太陽二つ分、上空数百メートルで二つのお日さんが輝いた。こんな印象的な大切なせりふなのにさっぱり覚えていない。

 やれやれ、僕の芝居を見る目、せりふを聞く力もたいしたもんじゃないね。がっかりだ、まったく恥ずかしい。

 もっと驚いたことがある。それは、父親がすでに死んでいるってことが、芝居の冒頭から語られていたってことだ。いやあ、知らなかった。ラスト、家屋の下敷きになった父親を救い出そうとする娘、被爆時を思い出すシーンで初めて、父親が幻影だったと明らかになるんだと、すっかり思いこんでいた。そうじゃなかったんだ。観客にはかなりはっきりと、父親の被災そして、死が伝えられていた。こんな大事なこと見落としていたなんて、もう、恥ずかしいを通り越して、呆然としてしまうほどだ。

 こんな誤解は、単純に僕の注意力のなさが原因なんだが、今になって、翻って考えて見ると、いや、開き直って思い返してみると、僕が勘違いしたような構成の方が、いいんじゃないだろうかって思えてきた。おいおい、井上さんにけち付けようなんて、おこがましいにもほどがあるぞ。まっ、それは百も承知。

 だってね、娘が父親の死を受け入れているとなると、娘はかなり意図的に父親の幻影を引っ張り出して利用してるってことになる。木下さんへの愛に踏み出すために、その一押しがほしくて父親を呼び出してるってことになる。もちろんそうなんだが、それを観客がはなから知ってしまうと、なんか、娘の打算が見えてきて、ちょっと鼻白む感じがするんだ。父親は生きていて、愛に躊躇する娘を心配して、訪ねてきているって形でラストのどんでん返しまで行った方が、娘のいじらしさを損なうことがないように感じる。生きている存在と思いこまされていた父親が、実は娘が呼び出した幻想だったって最後にわかった方が、ラストの衝撃力もより大きくなるんじゃないだろうか。

 前回までは、僕の方でそう思いこんで見ていたから、ラストシーンのインパクトはかなりなものだった。今回は、さらっと終わったって感じ。木下さんを出迎えて、夕日に立つ娘の横顔、もう一つ、迫ることがなかったのも、そんな理由からかもしれない。

 とは言え、あちこちで心打たれ、涙を流したから、全体としてはとても良い舞台だった。萬長さんの熱のこもった演技も良かったし、栗田桃子さんの、せりふぽくない淡々とした語り口と、突如吹き出す激情の奔流にも引きつけられた。彼女が美人でなかったことも良かった。ごめんなさい、桃子さん。気付ば、もう終わり?あっという間の1時間半だった。

 さて、今回も置農演劇部部員全員で見に行った。期末試験二日前だって言うのに、いいのか?いいんです!見終わった生徒たちみな、泣きました、と感激しきりの表情だったから。そう、この感動は、きっと、彼らの心の中に大切なものとしてしっかり残る。悲惨な原爆のこと、そこに生きた少女のけなげさ。期末試験なんかよりずっと大切なものなんだよ。おっとそうまではっきり言うとまずいけど。それにしても、一部男子が寝てたってどういうことなんだ?男の鈍さは、演劇部に入ってもなおらないか。

コメント
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